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日本墓紀行「想」

第十二回 太田道灌

戒 名

洞昌院殿心円道灌大居士

没年齢

55歳

所在地

幡龍山公所寺洞昌院
神奈川県伊勢原市
上糟屋町台久保

最寄駅

小田急線 伊勢原駅
バスで約10分
「道灌塚前」バス停下車

辞世の句

かかる時 さこそ命の 惜しからめ

かねて無き身と 思ひしらずば


太田道灌、この名前を聞いて何を思い浮かべるだろう。真っ先に江戸城を思い浮かべる人がほとんどではないか。私もその一人だ。
しかし、どんな人だったかとなると意外と知らない人が多いだろう。

太田道灌は、1432年、扇谷上杉家家宰太田資清の子として生まれた。幼少の頃は鎌倉、足利学校で学問を修め、その英才ぶりは世に知られた。
父の影響もあって和歌にも長じ「山吹の里」の伝説など多くの逸話を残している。このような「文」だけでなく「武」もまた、道灌のもう一つの顔であった。鎌倉公方足利市と関東管領上杉氏の対立は28年にも及ぶ享徳の乱にまで発展した。その防御拠点であった川越と岩槻に父資清とともに城を築いたのは1457年のことであった。多くの戦に勝ち、戦術に長け、先を見る目はやがて江戸築城へとつながる。この三城は道灌の生涯にとって特別なものであった。現在では川越城は初雁公園、岩槻城は岩槻公園となって残っている。城の周りには海、川、平地など町が発展する要素を携えていた。道灌は都市計画の立案者であったともいえる。

正に文武両道の人であった。現代では子供たちを塾に通わせ、「いい学校」へ入れようとする。または様々なスポーツクラブへ入れ「力」を身につけさせようとする。どちらも今に始まった話ではない。「文武両道」を身をもって示した道灌は今の教育や東京をどう見ているのであろうか。頭デッカチで情報やお金にばかり走る者。力を誇示して我がもの顔にルールをわきまえない者。どちらも歪んでいる。どちらが過ぎても バランスは崩れてしまう。遠くはギリシャのスパルタもアテネもバランスを欠いて滅びた。待ちも人も変わらない。

道灌の威望は絶大となり、主家扇谷上杉家の勢力も増した。しかし、出る杭は打たれるのか。讒言か主家の嫉妬か定かではないが上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれそこで暗殺された。享年55歳 1486年のことであった。

墓所は伊勢原駅からバスで15分程、上糟屋の幡龍山公所寺洞昌院にある。夏の日差しを忘れるほどの木々に囲まれて墓所はある。両側には大きな木の株がどっしり守っている。ここは、胴塚、首塚は駅から徒歩18分程、東へ小さな川が流れるそばに下糟屋の法雨山大慈寺はある。


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