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・JAZZの魅力と歴史

2014年4月7日月曜日 晴れ

本日は、大塚本社のMKさんの記事になります。以下本文↓

 

最近、私気晴らしでJazz BarやJazz喫茶にのこのこ出かけています、年齢層はやはり高いのですが、20~30代の方もちらほらいらっしゃる、でもいずれにしても私なんぞが及びもつかぬほど深~い方ばかりのようで少々気おくれしつつも場を同じくさせてもらっています。

独特な雰囲気でいい感じです。そんな訳で少しだけJazzとは、何なのという事で、色々解釈がありますが、大体の「ウンチク」にお付き合いを。

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ジャズの歴史について、わかりやすく説明されている文章がありましたので、参照させていただきます(Nana Squre ジャズの歴史より引用)↓

ジャズは19世紀後半から20世紀初頭にかけてアフリカ系黒人の伝統的音楽とヨーロッパ系白人の伝統的音楽が黒人奴隷が多かったアメリカ南部で融合することによって生まれた独特の響きを持つ新しい音楽であった。特にジャズの成立にとって重要な要素であるブルースはその初期においてはニューオリンズを中心とした南部の黒人達が支配的な役割を演じた。黒人の喜びや悲しみを歌ったブルースの特徴は12小節という形式、3音と7音が下がり気味に独特の旋律をとる。このミとシの微妙な♭感がいわゆる”Blue Note”と言われるものだ。ブルースととともにジャズの下地になった音楽にラグ・タイムと言われるピアノ奏法がある。Rag とは”だらしない”という意味だが譜面どおり正確に弾かずわざとはずしたり強弱をつけて演奏するピアノ奏法で、ここからジャズのあのシンコペーション、スイング感が生み出されることになった。ブルースとラグタイムといった黒人音楽を軸に、白人社会の音楽がそれに様々な形で影響を与えていく中でジャズはアメリカ音楽として育っていった。

ジャズの創始者はコルネット奏者バディ・ホールデンというのが定説になっているようだが細かい資料が残っているわけではないのであまり定かではない。こうした音楽を当初Jassと言っていたようだがそれが変化して1910年代後半にはすでJazzという言葉が生まれていたようだ。ジャズ発祥の地ニューオリンズにはフランス人と黒人の混血であるクレオールと呼ばれる人たちが大勢いた。彼らは当時白人並みの教育を受けた階級でもありクレオール・ジャズと呼ばれるより洗練された演奏スタイルを生み出した。一方、ニュー・オリンズに住む白人達も黒人の演奏スタイルをまねて管楽器でジャズを演奏し始めた。これがニュー・オリンズ・スタイル、デキシーランド・ジャズの誕生となっていく。

ジャズの創世記である1890年代~1910年代まではニューオリンズがジャズの中心であり、あのルイ・アームストロングもすでにこの地で活躍しいた。1917年、演奏者達の活躍の場であったストーリーヴィルが公娼制度の廃止によりすっかり寂れてしまい多くの演奏者はその活動の地をシカゴに移す。この時期ルイ・アームストロングもすでにシコゴに拠点を移していた師匠でもあるキング・オリバーに呼ばれKing Oliver’s Creole Jazz Band の一員となった。その後、ルイは自らのバンドを率いてKing of Jazz の路を歩んで行くことになる。

1920年代のシカゴはまさにギャングの街、彼らが経営する秘密酒場では連夜ジャズとダンスの狂騒が繰り広げられていた。ジャズはこうして白人社会に溶け込むことによってより洗練されたものへと変化しながらアメリカ全土で演奏されるようになっきた。

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1920年代にはニュー・ヨークでストライド奏法のピアノ弾き語りファッツ・ワラーが活躍、フレッチャー・ヘンダーソンはビッグ・バンド・スタイルを確立していた。

1920年代後半にはカンザス・シティでジャズが大流行する。当時この街は完全にギャングが支配した無法地帯、禁酒法無視で酒場は連日連夜ガンガンとジャズを演奏していた。カンザス・シティを支配していたギャングのボスは大変なジャズ好きでミュージシャンたちに自由に演奏する場を与えた。これが有名なカンザス・シティ・セッションで、このセッションを通じてカウント・ベーシー、レスター・ヤングといった様々なミュージシャンが育っていった。映画カンザス・シティではこの時代の雰囲気がとてもよく描かれている。そのカンザス・シティ・ジャズも禁酒法の廃止とともに徐々に廃れていき演奏者たちはその拠点をニューヨークへと移していくことになる

当時ニューヨークのハーレムあったコットン・クラブは白人社会の名士達が集まる社交場でもありそこではレベルの高い演奏や唄、ダンスが繰り広げられてキャブ・キャロウェイやデューク・エリントンらが活躍していた。この頃になるとジャズはダンスと結びつきながらエンターテイメントとしての要素を色濃くし、やがてスイング時代を迎える。

1930年代~40年代はスイング・ジャズの黄金時代、ベニー・グッド・マン、トミー・ドーシー、グレン・ミラー等々の楽団が活躍しジャズはアメリカのポピュラー音楽として世界中に認知されていった。それぞれの楽団には専属歌手がおり1コーラスバンドが演奏した後1コーラス歌手が唄うという演奏スタイルが一般的だったようである。この時代はたくさんののジャズ歌手が育った時代でもある

ポール・ホワイトマン楽団の専属だったビング・クロスビーはその後ラジオに出演して大変な人気歌手になった。彼の軽く心地よくスイングするクルーナー唄法は(マイクを上手く使いつぶやくように唄う)その後のシナトラをはじめとする多くの歌手たちに多大な影響を与えた。エラ・フィッツゼラルドはチック・ウエップ楽団からデビュー、ペギー・リーはベニー・グッドマン楽団の専属歌手として、そしてハリー・ジェームス楽団の専属歌手として当時のアイドル歌手フランク・シナトラがデビューした。ビリー・ホリデイは特定の楽団の専属歌手ではなかったがベニー・グッドマン楽団やカウト・ベーシー楽団とレコーディングをしている。最近、この当時の復刻CDが続々発売されており、ビッグ・バンド・シンガーたちの魅力を存分に堪能することが出来るようにもなってきた。

この時代はブロードウエイ・ミュージカルも全盛期を迎えガーシュイン兄弟、コール・ポーター、ジェローム・カーン、ハロルド・アーレン、アービング・バーリン、リチャード・ロジャース等々の作曲家が次々に作品を発表、ジャズ・ミュージシャンも彼らの創った曲をこぞって演奏したり唄ったりするようになった。ミュージカルやポピュラーソングとして創られたこの時代の曲はジャズとして演奏されることによりスタンダード・ジャズ・ソングという永遠の命を与えられたと言ってもい。

1940年代前半、スイング・ジャズは爛熟期に入っていたが経済情勢の悪化とともに大人数のビッグ・バンド維持が徐々に困難になってきた。一方、あまりにも商業主義的になったジャズへの反動としチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスビー、ケニー・クラーク、チャーリー・クリスチャンといった人たちの間から新しいジャズを模索する動きが出始めてきた。2拍と4拍目を強調するオフビートとアドリブ・ソロを前面に押し出した新しいスタイルのコンボ演奏、ビ・バップの誕生である。ビ・バップという言葉には特に意味は無いようで練習の際、フレーズのアクセント位置を表す言葉として使われていたということである。今では「ビ」は省略され単にバップと呼ばれるようになっているが・・

バップの出現はまさにジャズの革命だった。複雑なコード進行、微妙なリズムと不協和音、個人技とも言える延々と続くアドリブ・ソロ等、スイング・ジャズとは大きく違った演奏スタイルだった。バップの演奏者達はそれまでのダンスやショーと結びつきエンターテイメント色の強かったジャズを芸術としてのジャズへと革新していった。特に当時そのアドリブが鳥の囀りのように聴こえるということからバードと異名の付いたチャーリー・パーカーの衝撃的な出現はジャズ・ファンの間にも混乱と亀裂を引き起こした。自分がチャーリー・パーカー以前のジャズ・ファンなのか以後のジャズ・ファンなのかを明らかにしその理由を説明する必要に迫られるようになった。

1950年代、バップの影響を受けながらもその様式から飛び出しクール・ジャズと呼ばれるスタイルで演奏するグループが登場し始めた。クール・ジャズに大きく関与したのがスタン・ゲッツ、レニー・トリスターノ、マイルス・デイビス等であった。透明で軽やかな響きと知的な感じのアドリブがクールジャズの特徴だったが、これがジェリー・マリガンを代表とするウエスト・コースト・ジャズへとつながってゆく。一方、イースト・コーストのミュージシャン達は感情の高まりを抑えたウエスト・コースト・ジャズに不満を覚えより感情をぶつけてと演奏するハード・バップと呼ばれるジャズを誕生させた。

1950年代、ジャズは様々なスタイルに分化しながらも現在、ジャズ・ジャイアンツと呼ばれるビッグ・ネーム、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレイン、オスカー・ピーターソン、マックス・ローチ、クリフォード・ブラウン、ソニー・ロリンズ、ジョン・ルイス、エルビン・ジョーンズ、ビル・エヴァンス、マッコイ・タイナー・・等々、偉大なプレーヤーたちを生み出していった。

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1960年代前半にはオーネット・コールマン、チャーリーー・ミンガス等がフリー・ジャズという分野を確立させた。ビ・バップから出発した新しい動きはジャズを芸術としての地位に押し上げ、レコードによるジャズの普及は拡大したが反面、ジャズ本来の面白さ「生演奏」と遊離していくという現象が急速に広がっていった。あわせて1960年代後半からはロックやフォークが大流行しはじめジャズだけを演奏していたニューヨークのクラブも徐々にその姿を消していくことになった。

1970年代は音楽のさらなる多様化とともジャズもその影響を色濃く受け、従来のジャズという決められた線上で発展進化するというよりそれぞれの演奏者達がばらばらな道を歩みはじめた混迷の時代でもあった。スイング時代には70%を誇ったジャズレコード売り上げもわずか3%まで落ち込み、かってのようにライブハウスから有能な演奏家が育つこともほとんどなくジャズは衰退の危機に晒されていた。

しかし、1980年代に入ると再びアコースティック・ジャズが復活の兆しを見せ始める。そのきっかけを作ったのがアート・ブレーキーのバンドに加入した若いトランペッター、ウイントン・マルサリスだった。彼の出現によりレコード会社もジャズ・プロモーションに再び力を入れる様になり、以降クリスチャン・マクムライド、ルイス・ナッシュ、ジョシュア・レッドマン、デビット・マレー、ニコラス・ペイトンといった演奏家たちが登場、ある者は伝統的なアコースティック・ジャズを独自のスタイルで、ある者はラテン音楽や東洋音楽との融合を試みたりと若い才能の活動が活発になってきた。

ジャズ・ヴォーカル分野でもダイアン・リーブス、カサンドラ・ウイルソン等が脚光を浴び、その後ダイアナ・クラール、ステーシー・ケントといった魅力的なヴォーカリストたちが表れ人気を博している。(以上、引用です)

以上、これがJazzと言われているものだと思います、理屈はともかく、心癒されるものには間違いありません、是非食わず嫌いにならず、お召し上がりください、ではなく、お聞きになってみて下さい。

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さてと今日はこれでも聞いてみようかな、あ~癒されるわ~、それでは。

 

 

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