2015年7月24日 金曜日 曇り
こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、首都圏にて霊園と墓地をご案内・ご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
先日の記事に引き続き、埼玉県東松山市岩殿にあります史跡の「足利基氏館跡」に行ってきましたので写真をご紹介します。
場所は先日記事にしました、弁天沼(鳴かずの池)や阿弥陀堂の板石塔婆からすぐの場所です。岩殿観音の入り口にあたる場所で、大東文化大学やこども動物自然公園からもほど近い場所です。
道路沿いに案内の目印が立っています。
細い道なので、車を停める場所はありません。弁天沼から歩いていきました。
だんだん畑の奥に案内板が見えます。
こちら↓案内板です。
東松山市指定文化財
足利基氏の塁跡 昭和40年8月10日指定
足利基氏(あしかがもとうじ)は、鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将で、足利尊氏の次男として歴応三年(1340)に生まれました。
館の跡は、高坂台地西側の斜地に立地し、九十九川(つくもがわ)に向かって下り、南側が大きく開口しています。北と東西に土塁跡、東西に堀跡が残っています。館は堀を含めると東西180m、南北80m前後の規模とみられ、北面中央部の東寄りが山側に突出した形となっています。このすぐ東側で北と東の土塁の交点には、物見台とみられる高まりがつくられています。
東と西側の土塁の外には、現在、水田となった水堀が往時の面影を伝えています。南面は後世に大きく変化していますが、九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたとみられます。
『新編武蔵風土記稿』にも記載されていますが、この館跡は足利基氏が貞治二・正平一八年(1363)に反乱をおこした、芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)と、いわゆる「岩殿山合戦」を行った時に布陣した場所で、本陣がおかれた可能性が高いと思われます。
しかし、基氏は長期の滞在はせずに、すぐに下野国に陣を進めています。そのためこの館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を陣地として利用したものと思われます。
平成15年3月 東松山市教育委員会
※以上、案内板より引用。
この案内板のある少し先に物見台があったようですね。また、土塁や堀跡が弁天沼や阿弥陀堂の板石塔婆のすぐ近くまで続いていたようです。
案内板の建つ場所は現在だんだん畑となっていますが、ここも堀跡だった場所なのでしょう。
また歴史を感じられる場所を訪れましたら記事にしてみます。
さて場所は先述のとおり岩殿観音の近くにあり、大東文化大学やこども動物自然公園、物見山もすぐ近くです。東松山市の高坂から鳩山町に向かう途中にあり、鳩山町の霊園サンヒルズ・メモリアルガーデンも遠くありません。ご見学の途中にお散歩するのにちょうどよい文化エリアです。
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