著名人 有名人の墓 北原白秋
都営多磨霊園 10区1種2列6
1885年(明治18年)1月25日生まれ、1942年(昭和17年)11月2日永眠 享年57歳。
北原白秋、本名北原隆吉(きたはらりゅうきち)。日本の詩人、歌人、童謡作家、さらには新民謡(松島音頭や、ちゃっきり節なども)や、多くの学校の校歌や応援歌にも作品がある等、多彩な活動をした。熊本県南関の産。福岡の柳川にて、商家の北原家に生まれる。
14歳の時、成績不振で県立伝習館中学を落第となり、このころから詩や歌に熱中するようになる。16歳の時に同人雑誌に作品を出すようになり、白秋の号を使いだす。父に無断で中学を退学し、東京にのぼって早稲田大学英文科予科に入学。同郷の若山牧水と交わる。新進気鋭の詩家として活躍し始める。
明治39年(1906年)、21歳の時に詩歌結社の新詩社に参加し、与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木と出会う。森鴎外、斉藤茂吉、高村光太郎など、知己を増やし人脈を広げる。
明治42年(1909年)、初めての詩集「邪宗門」発表。1912年、実家の家業が傾いたため父母弟を東京に呼び寄せる。
隣家の人妻松下俊子と恋仲となり、妻の夫より姦通罪で告訴されてしまい、身内のとりなしによって告訴は取り下げられるも、スキャンダルによって名声がかげる。1913年俊子と結婚。しかし翌年には離婚する。(俊子を含め三度結婚、二度離婚を経験する)
その後も精力的に制作活動を続け、優れた童謡作品を多く世に送り出す。
1942年(昭和17年)、11月2日逝去。享年57。
神式の丸いドーム状に葺石(ふきいし)をドーム状の饅頭型にはりつけたお墓です。隣には「北原家墓」がたっています。
このドーム型の表面に貼りつけた小さな化粧石を葺石といい、この形状のお墓は神仏分離(廃仏毀釈)のなされた明治から戦前のお墓に時々みられる神式のお墓になります。葺石は古くは古墳の表面を化粧していたものになります。
また、神式のお墓ということで考えてみますと、丸い土饅頭型のお墓も神式として存在しておりますので、どちらにしましても神式のカタチと姿ということになります。神式、神道のお墓は、現代では三段墓の一番上が四角錐になっているトキン型が主流ですので、今となってはなかなか見られない形式です。