2014年1月23日
今日は「源経基(つねもと)館跡」に行ってきた写真を記事にしてみます。
源経基館跡は鴻巣市の大間にあるのですが、鴻巣高校のすぐ隣、荒川の土手のすぐ近くにある史跡です。
源経基というは、清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたることから六孫王(ろくそんのう)と称した。弓馬の道に長じ、武勇を持って知られた。源姓を賜って源朝臣を称したが、武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられている。
と埼玉県と鴻巣市の連名での案内板に書いてありました。
源平合戦や鎌倉幕府の源氏の大本がこの源経基。清和天皇の血を受けているので清和源氏とのちのちに呼ばれることとなります。源頼朝や源義経の八代前の方です。
この館跡は、ここ大間では城山と呼ばれていたようで、およそ90m四方の正方形に近い形状をしています。
道路を挟んだ西側には農耕地が広がっており、その向こうには中学校のグランドと荒川の土手が見えます。
館跡を外から見ると、とても鬱蒼とした森に見えます。
しかし、一歩踏み入れると、予想外に歩きやすい林になっていて、逆に木々に癒されました。
入口から入ってすぐ、一段土が盛ってあり、その上(館の中)は平らな土地が広がっていました。
まっ平らです。ここに源経基の居館の建物が広がっていたんでしょうね~
内部の平坦地を囲むように土塁が三方をめぐっています。土塁の中でも一段と高い場所に何やら石碑が立っています。↓この写真の左上。館跡の北西に位置しています。矢倉でも建っていたのかもしれません。
↑六孫王経基城址とあります。その足元には「遺跡基準点 NO.1 鴻巣市教育委員会」とあります。
↓石碑の裏側です。大間村だったことと、城山と呼ばれていたことと、江戸時代には林大学頭の采地だったということがわかります。
石碑から東を向くと、右側に広がる平坦地と、東に続く道のような土塁と、左手には掘割が確認できました。
土塁から内部の平坦地を眺めると、結構高低差があるのがわかりました。手前の土塁と奥の平坦地の高低差わかりますでしょうか?↓
↓土塁からは鴻巣高校も少し見えます。
掘割に下りる階段を発見。お堀の向こうは高校のグランドです。
ふと足元を見るとドングリがたくさん。椎の木の林なのですね。
お堀に下りてみました。土塁結構高いです。右手のフェンスは高校です。
反対側の東側をみると、館跡の北西角が折を描いて完全な90度の角になっていないことがわかります。写真だとわかりにくいですが、谷間になっている道がクランク状にジグザグになっています。
東辺の土塁に上がってみると、またもや基準点発見。今度はNO.2です。
土塁の道をさらに進みます。↓このあたりは南辺になります。右側が館跡内部の平坦地です。
平坦地に西日が差しこんで、とてもいい感じの雰囲気をかもしだしています。ご近所の方はお散歩でここにこれるのがうらやましいくらいです。
ゴミは持ち帰りましょう。
とても気持ちの良い林でした。
一番西側に戻ってきました。土地が三段になっています。左手前の木のある高さと、真ん中あたりにある木のある土地の高さ、正面遠くにある木のある土地の高さはそれぞれ1mくらいずつの段差があります。それぞれ門があったり、塀があったりしていたのでしょうか。
道路に出ました。
ここにこういう史跡があると知らなければ通り過ぎてしまうような館跡です。
弊社大塚の取扱い霊園の鴻巣霊園から近いので、お墓をご見学の際やお墓参りの途中などにお散歩がてら寄ることもできる史跡です。
また歴史的な場所に行きましたら記事にしてみます。