2014年1月25日
今日は、埼玉県鴻巣市にあります箕田追分の写真をご紹介いたします。
箕田追分(みだおいわけ)は、江戸時代に整備された五街道のうちの中山道の鴻巣宿と熊谷宿のあいだにある追分です。吹上よりも鴻巣寄りにあり、北鴻巣駅が一番近い立地です。追分とは、道が二手にわかれている分岐点。分かれ道のことです。
旧街道の中山道沿いに↓こういった案内板が設置されています。丁度交差点の道路改修にあわせて場所をかえて設置しなおしの工事中のようでした。
↓街道の古地図が描かれています。
↓ここ箕田の地は、箕田源氏のゆかりの地。先日の記事にも書きましたが、すぐ近くには源経基館跡もありますので、東国の坂東武者として源氏が広がっていく中で箕田源氏も発生していったのでしょう。
↑今昔物語集にも箕田源氏が書かれているとか・・・。
↑ここ箕田追分からは、三ツ木・川面を経て、忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれていたそうです。ここには立場茶屋というものがあり、旅人が休憩したり、別れを惜しんだりというシーンがあったようです。
案内板にある昔の絵にも描かれていました。
↓江戸時代の街道図です。右が日本橋、鴻巣宿方面。絵地図が横長なので三分割して右側から順にのせてみます。
↑宮前村の文字が見えます。この左側の絵地図がこちら↓
↑箕田村の文字が見えます。↓さらに左側です。
↑現在地の箕田追分に赤い丸があります。左上方向に向かうと忍、館林方面ということになります。左に向かうと吹上を通って熊谷宿、京都へと向かいます。
この古地図の道は現在の中山道の旧道として、浦和大宮から鴻巣吹上までは今現在も生きていると言えます。国道17号はすこし離れたところを並走している地域なので、都内などで呼ばれているように「中山道=国道17号」ではない地域になります。グーグルマップ等を見ると、国道17号に大きく「中山道」と表示されているので戸惑ってしまいます。このあたりではそれぞれ別の道路。熊谷や深谷あたりでも、国道17号と旧街道は同一ではないようなのですが、それぞれどう呼称しているのか気になります。(中山道の道程について詳しくはこちら→国土交通省 関東地方整備局 大宮国道事務所)
↑埼玉県がこういった道標を整備しているようです。↓この案内板のうしろには馬頭観音もいらっしゃいました。
後ろを振り返ると交差点です。↓左側に小さいお堂が目に入ってきます。
小さいながらも、とても綺麗に整備されているお堂です。お地蔵様が安置されているようでした。
綺麗に掃き清められているので、うかつに踏み入れられません(^_^;)
↓庚申塔もありました。立派な彫刻です。
↓丸い穴がたくさんあります。お供え物を置く穴のようです。
やさしいお顔のお地蔵様です。どうぞ道のりを間違えないよう見守っていてください。
中山道は、中仙道や仲山道、仲仙道など、様々な表記がありますが、五街道として整備された江戸初期、幕府は「中山道」と定めております。仲の字や仙の字は、それぞれの地元で広まって使われたローカルな使われ方のようです。さらには国道17号ができたことによって「旧」をつけて旧中山道と呼ぶ地域もでき、当然、旧中(きゅうなか)と呼ぶ習慣も出来たりしていきました。
↑というのを以前目にしてからは、わたくしブログ担当Tはできるだけ「中山道」で統一して使用することにしています。
が、今となっては仲や仙の字を使っていても、もはや誤りとは言えないので「どれも正しい」が正解だと思います。ただし、国土交通省による交通標識などでは順次「中山道」に書き換えて統一されたようです。