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霊園とお墓のはなし

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・さいたま市岩槻の「時の鐘」

2014年11月30日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、いわつき聖地霊園のすぐ近くにあります「時の鐘」を見てきました。大通り沿いにはなく、路地を入ったところに鎮座していました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5926

道標と案内板が目印です。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5927 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5929

案内板にはこのように書かれていました。

岩槻市指定文化財 時の鐘

指定年月日 昭和33年2月21日
指定の種類 有形文化財(工芸品)
所有者 岩槻市

岩槻城下の時の鐘は、寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。50年後の享保5年(1720年)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は1日3回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、1日12回撞かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿』他)。

鐘楼は、嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っています。

文化財を大切に 岩槻市教育委員会

以上、案内板からの引用でした。現在の鐘はつくられてから300年ほども経つのですね~。歴史を感じます。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5930

岩槻八景「城口晩鐘より」の図絵がありました。ランドマークとして機能していたことがわかります。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5931 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5948

夕方に行ったためか、写真が暗くなってしまいましたが、巨大ではないものの存在感のある鐘楼と、その中にある鐘が夕方のためかとても印象的に感じられました。鐘楼の向かい側にある銀杏の大きな木とあわせて独特の雰囲気があります。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5932 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5933 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5934 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5950

鐘の音は聞くことができませんでしたが、重厚で趣のある音色を聞くことができるのでしょうね。

石碑があり、「岩槻城墟碑」と刻まれているのがわかりました。城墟碑とありますのでそんなに古い石碑ではありませんが、十分に歴史を感じさせられる佇まいのある石碑です。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5935 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5936

案内板と案内地図もありました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5937 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5938

城下町岩槻

鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる幹線道が元荒川(当時は荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。奥大道は鎌倉街道の一つで、関東の政治の中心・鎌倉から北関東・東北地方方面へと通じる街道です。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。

15世紀以降、戦国の動乱が恒常化すると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、岩槻城を中心とする都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献資料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構(おおがまえ)と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化し、岩槻城主の領域支配の核であり象徴でもある城下町が確立しました。

江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、岩槻城大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町家(商工業ゾーン)が配置されました。また、旧来の街道は将軍の日光参詣路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。

武家地内は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生垣や板塀で区画された広壮な武家住宅が形成されました。大構の出入り口と、武家地・町家の出入り口は口(くち)と呼ばれ、門・木戸が設けられていました。城下町に由来する文化財の一つ、時の鐘は、寛文11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、そうした口の一つ、渋江口に設置したものです。

町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、さまざまな業種の商家などが通りに面して店を構えていました。町家の商家は岩槻城主や家臣の需要にこたえるばかりではなく、周辺農村に必要物資を提供する役割も果たしていました。町場の中心である市宿町(いちじゅくまち)では、戦国時代以来の六斎市(ろくさいいち)(毎月6回開かれる定期市。市宿では1と6の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などでにぎわいました。

以上、案内板より本文を引用しました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5939-

丁度この鐘のある場所が大手門から町家エリアに至る交差点になっていて「渋江口」だったということが地図からわかりました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5947

案内板には↓のような絵図もありました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5940

日光御成道道中絵図に見る城下町の町並み

江戸時代後期の道中絵図に描かれた久保宿町と市宿町。町境の木戸で区画された街道沿いに商家が軒を連ね、その手前には大構、奥には岩槻城が描き込まれており、城下町岩槻の景観が手にとるようにわかります。また、市宿町の市神、久保宿町の本陣・一里塚など、市や日光御成道に由来する要素も見て取ることができます。

原資料・・・「日光道中絵図」(独立行政法人国立公文書館内閣文庫所蔵)

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5946 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5945

昔と今とではかなり町のカタチが変わってしまいましたが、たしかに存在した記録としてさまざまな文化財が町のなかに残っています。町の成り立ちや歴史をたまには振り返ってみてもいいのかもしれませんね。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5951

ところで、弊社はお墓をご案内している石材店です。岩槻の街なかにあります「いわつき聖地霊園」はアクセスもよく好評の霊園になっています。

ご興味ありましたら、こちらのページもご覧ください→いわつき聖地霊園の墓地情報のページ

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

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