2014年12月29日 月曜日 雨
こんにちは。首都圏にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
本日の記事は、沖縄県那覇市の泊港(那覇港)に隣接してあります「泊外人墓地」をご紹介いたします。
ペリーというと、黒船と開国させた人物という印象がありますが、もう少しペリーについて勉強してみようと思います。
Matthew Calbraith Perry(マシュー・カルブレイス・ペリー)というのが正しい名前なのですが、日本に来たの日本側の記録では「ペルリ」と書かれ呼ばれてきました。漢字表記は「彼里」と書いて「ペルリ」と読みました。
1812年の米英戦争に参加し、その後1846年の米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)では後に日本にも来るミシシッピ号の艦長と本国艦隊副司令という地位になります。1852年東インド艦隊司令長官に就任。日本の開国についての大統領文書を手に四隻の軍艦を引き連れて日本に向かいます。ミシシッピ号を旗艦に、マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・沖縄を経由しました。
1853年6月6日、琉球に上陸いたします。そして同1853年7月8日に浦賀に入港。忽然と江戸湾口に現れた四隻の黒船に当時の人々はパニックになり「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった4杯で夜も眠れず」という歌に当時の様子が現れています。そして要求を伝えた後日本を後にし、ふたたび琉球に立ち寄って帰っていきました。
翌1854年春に再度日本にやってきたペリー。3月31日に日米和親条約が締結されます。そしてその足でまたもや琉球に訪れ、琉米修好条約を締結しました。江戸幕府と江戸の庶民が驚いたように、沖縄の人々もたいそう驚いたことでしょう。
そんなペルリ提督上陸の地がここ那覇港(泊)です。石碑には上陸した日付「1953年6月6日」と刻まれています。
記念碑は泊外人墓地の中にあります。門には「インターナショナルセメタリー」とあります。
外人墓地というわけで、たくさんのアメリカの方々の名前が刻まれたお墓が並んでいます。
日本文化のお墓・墓地との違いが感じられますね~。
大きなお墓もあります。お墓のデザインや彫刻の様子もさまざまです。
没年月日を見ると、1965年が多々見られました。ベトナム戦争の戦没の方々でしょうか。
お墓のカタチは違っても、亡き人を思いカタチにする文化というのは同じものがあるのでしょう。亡き人を偲ぶ風合いと佇まい、そして空気に満ちていた外人墓地でした。