2015年6月7日 日曜日 晴れ
こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓背の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております、株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
今日は墓にまつわる言葉について。
墓にまつわる言葉
「展墓(てんぼ)」・・・墓参、墓参りのこと
お墓参りのことを別の言い方に変えた言葉のうち一つが「展墓」です。
現在一般的にはお墓参りのことをそのまま墓参や墓詣で等の言葉を使うことはありますが、展墓という言葉で言い表すことはあまりみられなくなってきました。短歌や俳句の季語として使われることもあり、そこからさまざまな文学作品にも使われています。
展墓は盂蘭盆会に墓参りすることを指し、秋の季語となっています。(ただ、実際には盆の墓参り以外にも使われているようです)
二葉亭四迷の「平凡」。1907年(明治40年)「東京朝日新聞」に連載された小説。
「・・・去年の事だ。私は久振で展墓の為帰省した。寺の在る処は旧は淋しい町端れで、門前の芋畠を吹く風も悲しい程だったが、今は可なりの町並になって居て、昔能く憩んだ事のある門脇の掛茶屋は影も形も無くなり、其跡がBarber’sShop と白ペンキの奇抜な看板を揚げた理髪店になっている。・・・」
泉鏡花の「縷紅新草」。は1939年(昭和14年)7月に雑誌「
「・・・玉を捧ぐる白珊瑚の滑かなる枝に見えた。 「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」 その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、 「道が悪いんですから、気をつけてね。」・・・ 」
石川啄木の「葬列」。1906年(明治39年)石川啄木満20歳(!)の作品。明星12月号に掲載。
「・・・今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を囑託せられて、一箇月半の樂しい休暇を全く其爲めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく實地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には歸つて來たのである。・・・」
吉川栄治の「黒田如水」。1943年(昭和18年)週刊朝日に連載。
「・・・帰国の翌日。半兵衛はひとり菩提山のふもとを歩いた。祖先の展墓のためだった。 するとその帰途を待っていたもののように、二名の侍が道ばたに跼っていた。見ると、黒田家から来ている松千代の傅役井口兵助と大野九郎左衛門であった」
種田山頭火「行乞記(ぎょうこつき)」1927年~1931年(昭和2年~6年)同人俳志「三八九」(さんぱっく)にて連載。
「八月四日 曇、どうやら風雨もおさまつたので、朝早く一杯いたゞいて出立、露の路を急いで展墓(有富家、そして種田家)、石古祖墓地では私でも感慨無量の体だつた、何もかもなくなつたが、まだ墓石だけは残つてゐたのだ。青い葉、黄ろい花をそなへて読経、おぼえず涙を落した、何年ぶりの涙だつたらうか!」
上記の文の後ろに並ぶ句の中に、この時の墓参についてのものがありました。
「おもひでの草のこみちをお墓まで」、「お墓の、いくとせぶりの夏草をぬく」
短歌、俳句の季語として現在でも使われる言葉です。
また機会をみて、お墓にまつわる言葉について書いてみようと思います。