2015年7月21日 火曜日 晴れ
こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置く石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
本日の記事も歴史を重ねた石塔ということで、埼玉県東松山市の岩殿にあります「阿弥陀堂の板石塔婆」の訪問記事になります。
場所は東松山市の岩殿観音、大東文化大学、こども動物自然公園からほど近い場所になり、先日記事にしました「・埼玉県東松山市岩殿の弁天沼(鳴かずの池)」のお向かいにあたります。ちょうど岩殿観音への参道に続く道沿いでもあります。
こちらは元々阿弥陀堂があった場所で、道の北側に墓地が丘の斜面に広がっています。
案内板があります。
阿弥陀堂の板石塔婆
市指定有形文化財(昭和40年8月10日指定)
板石塔婆(以下板碑)の多くは、亡くなった人の死後の世界での幸福や安らかに死を迎えられることを願って建てられたものです。鎌倉時代中頃から南北朝時代を経て江戸時代の初めの頃まで、全国各地で盛んに建てられています。この時代に多くの板碑が建てられた理由の一つに、貴族社会から武士の時代となり、世の中の争乱による苦しみや恐れにたいして、仏に心の救いをもとめたためと考えられています。板碑に刻まれた銘文は、文字資料の少ない時代の様子を知る手掛りとなるもので、貴重な文化財です。
後方の墓地の中腹に建っているひときわ大きな板碑が「阿弥陀堂の板石塔婆」です。「鳴かずの池」ほとりに建つ岩殿会館は、かつて阿弥陀堂があった場所と言われており、このことから「阿弥陀堂の板石塔婆」と呼ばれています。
この板碑は、応安元年(1368年)明超上人が中心となって、同門の五十余名の僧侶と共に、真言密教の布教を願って建てられた板碑で、このように多くの人によって建てられた板碑を結衆板碑(けちじゅういたび)といいます。
高さ260㎝を測り、市内では二番目の大きさの板碑です。蓮座の上には胎蔵界(たいぞうかい)大日如来の種子(しゅじ)、下には五字一句、四区からなる偈文(げもん)が刻まれています。中央には紀年銘と願主、その右には三列、左には二列の僧侶の名が十段まで確認できます。左端にも偈文が刻まれています。
この大きな板碑から、当時の岩殿山の繁栄と信仰の高まりを感じることのできる板碑といえます。
平成25年3月 東松山市教育委員会
※以上、案内板より引用。
↓中央に見えているのが板石塔婆です。斜面の中腹にあります。
近づいて見ますと、かなり大きな石塔だということがわかります。
さきほどの案内板にあった図と比較してみましょう。
700年前のものとは思えないほどに、刻まれた文字がしっかりと判読できます。
足元を見ると、小さな板碑や板碑であってであろう欠片となった石などが敷かれていました。
さて場所は先述のとおり岩殿観音の近くにあり、大東文化大学やこども動物自然公園、物見山もすぐ近くです。東松山市の高坂から鳩山町に向かう途中にあり、鳩山町の霊園サンヒルズ・メモリアルガーデンも遠くありません。ご見学の途中にお散歩するのにちょうどよい文化エリアです。
※東松山市の霊園 森林公園昭和浄苑の墓地情報のページはこちら。