2014年4月17日木曜日 晴れ
今日は、埼玉県川口市にあります赤山城(赤山陣屋)をご紹介いたします。
お城といいますと、白塗りの壁と青い瓦の美しい建物、直線と曲線の美しさの見られる石垣などが想像されますが、ここ赤山城には美しい建築物も石垣もありません。
しかし、美しく貴重な土塁がたくさん保存されている城址がここ赤山城です。
場所は、首都高速川口線と東京外かく環状道路(外環)という二つの高速が近接するエリアで、地下に埼玉高速鉄道の走っている埼玉県道161号越谷川口線には↑のような石柱が立っています。ここから先が赤山城、赤山陣屋であった場所です。
↑中央にあるのが「赤山城跡」です。川口JCTから近く、首都高速川口線でいうと川口パーキングエリアがより近く、外環道でいうと川口東ICの近く。県道161号越谷川口線の赤山交差点や安行西交差点も近くに当たります。埼玉高速鉄道の新井宿駅と戸塚安行駅からは歩いてくることも可能です。
弊社大塚がご案内している霊園も近くにいくつもあり、川口光輪メモリアル、川口フォーシーズンメモリアル、川口霊園かわぐちの杜などあり、霊園の多いエリアでもあります。
先ほどの石柱から進んで間もなく、日枝神社があります。
この神社は二段になっている小山に建っています。↓左が山のふもとの社で、右が山の頂上の社です。
山の上からは、木々越しに見晴らしが効きます。お城のあった時代には、遠くまで見えたのかもしれません。
さてこの日枝神社、このような案内板がありました。
江戸城鎮護の日枝神社(永田町、赤坂の日枝神社)から分社し、赤山城の守護として祀られたようです。「日枝」の号は明治元年から使われるようになりましたので、江戸時代は日吉山王社であったことから「山王さま」と呼ばれ親しまれていたのではないでしょうか。この築山は、陣屋空堀掘削時の廃土で築かれたと伝えられているとか。赤山城(赤山陣屋)は寛永年間(1624-44)から寛政4年(1792)に伊奈家が改易となるまで関八州の徴税、司法、土木治水を行う役所だったようです。
そのほか神社にはこのような↓案内板も。
山王神社は三社で成り立っています。武家の守護神で築城の伊奈家の守り神の八幡さま、学問の神様の天神社、徳川家にゆかりの深い山王社です。
鎮守の森に見られる植物も書かれています。
神社を後にし、そのまま西の方に進んでいきますと、直角に二筋の堀跡と案内板が見えてきます。
↑左が西に延びている堀跡、右が南に延びている堀跡です。案内板が二か所もあります。まずは案内板を見てみます。
伊奈家初代忠次からの業績が書かれています。わかりやすいところでは、小室(埼玉県伊奈町)に陣屋を設ける、千住大橋を架ける、利根川改修、荒川の川瀬を改修、権現堂川(かつての利根川)下流に江戸川を開削、赤山陣屋を設ける、見沼溜井の造成・八丁堤の築堤、勘定奉行になる、幸手用水・びわ溜井用水・葛西用水の開削、両国橋の修築、六郷橋の修築、千住大橋の掛け替え、飛騨郡代を兼務、深川埋め立て工事、永代橋を架ける、本所堤防の修築、浅草川の修復、富士山噴火の被害調査と復旧処理・・・
と、関東郡代(関東の代官の筆頭)を代々努め数々の業績をおさめた伊奈家、天明の飢饉の影響を引きずる中、関東郡代を罷免され、改易になってしまいます。
天明の飢饉の「江戸打ち壊し」の際には、諸国から米を買い集めて江戸市中に大放出して見事に難局を乗り切り、江戸の町人からの人気も高かったとか。
二つ目の案内板を見てみます。
赤山城は城の規模もかなりのものでした。左の写真の左下に同スケールの大阪城がありますので比較するとその大きさがわかるとおもいます。
現在の利根川、荒川、江戸川を整備したのも伊奈郡代の仕事でした。
さて、案内板から離れて遺構を歩いてみます。
↑こちらが南側の堀跡なのですが、現地を見たのが二月ということもあり、まだまだ雪が残っていました。植木で守られて堀が保存されています。
こちらは西の方に伸びている堀跡です。こちらはさらに公園風に整備されています。貴重な堀の中には入れないように植栽で守られています。↑左の写真の堀部分を拡大したのが右の写真です。の左の画像、堀の右側に並んでいる枝ぶりの良い並木は桜並木なのですが、その桜並木のある側が本丸で、堀を挟んで反対側の左側が「曲輪」と呼ばれ家臣たちの武家屋敷が並んでいたエリアです。正面方向ずっと奥に二の丸があります。とりあえず堀沿いに二の丸の方にむかって進んでみましょう。
ボランティアの方々によって管理されているのですね!おかげでゆっくりと見学でき、綺麗に写真を撮ることが出来ました。みなさんありがとうございます。
さて、西に延びている堀に沿って進むと、4m道路と交差します。
↑正面奥が先ほどの案内板のあった場所です。振り返って撮影しました。綺麗な堀跡です。
ここには「赤山城跡」の石碑が立っています。
二本の高速道路を横断する形の敷地は、とても広大なものですので現在の地図に当てはめてみるととてもびっくりします。なお、この地図で言うと現在地は本丸の近くの「南東堀」の「南」の文字のあたりです。
↑文字が薄くなりかけていましたが、何とか読めました。
ここまで歩いてきた堀(南東堀)はまだ先が続いていますので、進んでみようと思います。
1792年の伊奈家改易によって陣屋も廃止され、建物屋敷は取り壊され、土地は払い下げられて田畑や山林として利用されました。
そしてこのあたりは現在、植木の産地。この南東堀沿いにはなんともかわいらしい植木が育てられていました。
どこかこの辺りに「表御門」があったはずなのですが、すみません。わかりませんでした(^_^;)
さて赤山城めぐりはまだ半分。長くなりましたので後半は「その②」につづきます。