2015年9月7日 月曜日
こんにちは。首都圏にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
先日、恵林寺にある武田信玄公のお墓の写真画像をもらいましたのでご紹介いたします。
信玄公のお墓はいくつもの場所に建てられていますが、こちらは恵林寺にある信玄公墓所になります。
サイズ感が分かりにくいかと思いますが、門の屋根ほどの高さということと、両サイドの灯篭などと比較してとても大きなものだということがわかります。
向かって左手に宝篋印塔(ホウキョウイントウ)、右手に五輪塔と二つの石塔、供養塔が並んでいます。
とても厳かな雰囲気ですね。神聖な場所です。
山梨県指定 史跡
武田信玄(晴信)の墓 昭和33年6月11日 指定
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)の出生。天文10年(1541)21才で家督を次ぎ、甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀4年(天正元年・1573)4月12日、病のため信州・駒場の陣中で53歳で没した。その10年前、永禄7年(1564)12月1日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、3年間の秘喪の後、天正4年(1576)4月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財)に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。ここに全高349.6センチの五輪塔一基、全高369.6センチの宝篋印塔一基が建立されている。この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文12年(1672)4月12日、信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山現紹が武田家の遠孫・旧臣子孫592人の浄財を得て建立したものであることが判る。
平成14年12月 山梨県教育委員会 市教育委員会
※以上、案内板より引用しました。
信玄公のお墓のすぐ近くには、武田家臣供養塔がたくさん並んでいます。供養塔の「養」の字がちょっと違う書かれ方になっていますね。
もうずいぶん前のことになりますが、二十歳くらいの頃、山梨出身の友人(女性)と話をしていた際に「武田信玄ってさぁ~」と口にしたところ、「信玄公と“公”をつけなさい!」と怒られたのを思い出しました。互いに状況を理解するのに時間はかかりませんでしたが、山梨県以外の県では武田信玄に「公」をつけて呼ぶことを学校や地域、家庭で教わることはなく、公をつけて呼ぶことはあまりない(ファンや信奉者の方は別ですけどね)ということに、友人は改めて驚いていたものです。山梨だけでなく、他の県でもあることなのかもしれませんね。
それ以来、できるだけ「公」をつけて呼んでいます!
ちなみに、↓こちらも「公」をつけて呼ばせてもらっている謙信公のお墓です。
※以前の記事「・著名人 有名人の墓 上杉謙信公のお墓(林泉寺)」
そういえば、少し前に武田家の穴山梅雪公のお墓をお参りしてきました。「・著名人 有名人の墓 穴山梅雪公のお墓(静岡県 霊泉寺)」
また著名人のお墓の情報がはいりましたら記事にしてみます。