2016年4月月30日 土曜日 晴れ
こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き首都圏にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
今日は埼玉県富士見市にあります難波田城公園の写真をご紹介いたします。実は丁度一年前の写真なのですが、記事にするタイミングを逸してしまい一年経ちましたのでせっかくだから使ってみようと考えました次第です。
難波田城公園は、城跡ゾーンと古民家ゾーンに分かれています。今日は城跡ゾーンのご紹介です。(↓こちらの画像は富士見市のhpより引用)
丁度ゴールデンウイークの時期でした。
新河岸川の歴史を訪ねるサインリングコースの中のおすすめスポットになっているようですね。
案内板を発見しました。
お堀の残っているエリアが城跡ゾーン。地図の右上の方の建物がいくつもあるエリアが古民家ゾーンですね。
難波田城は難波田氏の城でした。鎌倉時代の承久の乱の恩賞として南畑(難波田)の土地をもらったことからこの名前となりました。戦国時代に扇谷上杉氏の重臣として活躍した難波田弾正憲重は、松山城の戦いの最中に敵方の北条家家臣である山中主膳と「風流歌合戦」を行ったことが有名です。歌合戦といっても、風流な和歌による応酬があったということで、紅白歌合戦のようなものではありません。なお、この時難波田弾正はここだけでなく松山城城主、深大寺城の城主でもありました。有力な武将ですね!残念なことに河越野戦で命を落としてしまいました。
こちら東門です。つつじがとても綺麗です。
門をくぐると、曲輪(くるわ)の遺構がとても美しくのこされています。
公園として整備されているので、土塁の稜線や直線的につくられた堀などもとても美しいです。
もちろんとても歩きやすく整備されていますのでお散歩に丁度良い公園です。
本城(本丸)には見張り台を模した東屋もあります。
東屋の中には城主からのお知らせがありました。「告 ゴミは持ち帰るべし 城主」
城主のいいつけには従いましょう。
こちらは本城の門跡にある石碑。難波田氏館跡、とあります。
城内にはさまざまな解説の案内板があります。
実はこの城跡には明治5年まで、修験道の寺院「十玉院」がありました。この墓塔は代々の院主やその関係者のもの。明治5年の修験道廃止令によって十玉院は廃寺となってしまいました。院主の上田氏はその後埼玉県議会議員などで活躍しました。
平成8年の発掘調査で発見された木橋跡を復元した橋が架かっています。
入口と出口の横の幅が違い、敵兵が攻め込みにくく守兵が守りやすい設計になっています。
さてあちらに見えるは資料館。中には模型や各種くわしい説明がたくさんあります。
資料館を出ると、足元がピンク色に。八重桜がちょうど散り頃だったようですね。
蓮の花も咲き始めの季節です。
カエルもいました。