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・著名人 有名人の墓 大平正芳(東京都 多磨霊園)

著名人 有名人の墓 大平正芳

都営多磨霊園 9区1種1側15番

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0641

1910年(明治43年)3月12日生まれ、1980年(昭和55年)6月12日永眠 享年70歳。

香川県香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家にて8人兄弟の第6子(三男)として育つ。ただし、姉と兄の計二名は夭折。

1933年(昭和8年)東京商科大学(現一橋大学)に進学。1936年大蔵省に入省。池田隼人は上司にあたり、人間関係が作られる。1949年(昭和24年)池田蔵相の秘書官となる。二年後の1951年(昭和26年)池田隼人からの誘いにより大蔵省を辞し、衆議院議員に立候補し当選。以降11回連続当選。池田内閣では内閣官房長官を務めた後、外務大臣となり日韓国交正常化にあたる。日中関係の改善にも努めた。その後佐藤栄作内閣では政調会長、通商産業大臣を。田中角栄内閣では外務大臣、大蔵大臣を。三木武夫内閣でも大蔵大臣を。福田赳夫内閣にて幹事長を務める。

1978年、第68代内閣総理大臣に就任し、「三角大福」の四人のうち最後に総理となる。田中角栄の影響が強かったことから「角影内閣」と呼ばれた。イラン革命や第二次石油危機、ソ連のアフガニスタン侵攻の中、モスクワオリンピック出場を辞退するという新冷戦時代であった。西側陣営としてのカラーを強め、アメリカに対して「同盟国」という言葉を初めて使用する。1980年(昭和55年)5月16日、社会党からのポーズであるはずだった内閣不信任決議案に対して、自民党内の反対派の動きのため可決され、それを受けて衆議院を解散させるという「ハプニング解散」も起こる(三日後の5月19日に解散)。

その後の総選挙の投票日が6月22日となるが、同日はくしくもベネチアサミット当日でもある。そんな選挙戦の中、選挙公示日である5月30日に大平は過労と不整脈のため緊急入院となる。6月12日朝六時前に心筋梗塞による心不全にて死去。享年70歳。現役総理の在職中の死去は48年ぶりであった。その後の選挙戦では党内の主流、反主流の別なく弔い合戦の様相となり、いわゆる「香典票」という同情票を多く得られたことで大勝となる。

コメントの際の口癖から「あーうー宰相」と呼ばれ、鈍重な印象から「讃岐の鈍牛」と呼ばれもしたが、「千五政界屈指の知性派」と言われるほど頭の回転も速く論理的にも優れており、かつ早口でもありユーモアまで交えることができる人物であった。「あーうー」の印象が強く、流行語ともなり子供も真似をしたほどである。朴訥で謙虚な人柄から、「おとーちゃん」と呼ばれ愛されていた(田中角栄は「おやじ」と呼ばれ愛されていた)。

墓所は多磨霊園のほか、郷里の豊浜町墓地公園にもある。また、同じく郷里の観音寺の元選挙事務所は大平正芳記念館となっていたが、2015年(平城27年)3月に老朽化により閉館となった。

多磨霊園の墓石には、自筆の文字が生き生きと書かれている。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0648+

また、墓域の左側には顕彰碑もある。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0649+

大平正芳先生は明治四十三年 香川県に生れ 東京商科大学に学び 大蔵省に奉職した後 政界に志し 内閣官房長官 外務 通産 大蔵の各大臣 自由民主党幹事長等の要職を歴任 昭和五十三年内閣総理大臣に就任した その業績は 日中国交の回復 首脳外交の推進 活力ある経済政策の展開など 多岐にわたつた 先生はよく内外の信頼に応え 人びとの幸せのため渾身の力を奮つたが 昭和五十五年六月十二日 現職内閣総理大臣として その職に殉じた 正二位大勲位に叙され その偉業は時と共に光彩を放つ 享年七十歳

どっしりとした印象のある洋型の墓石は、氏の人柄を思い起こさせてくれるようにも思われる。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0648

なお、この右手には将来を嘱望されながらも若干26歳で早世した長男の大平正樹氏の墓石も並んでいる。

※東京都の霊園一覧ページはこちらをごらんください。

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