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大塚日和」カテゴリーアーカイブ

・素人がセロリを自宅で大きくできるか?セロリの水耕栽培から鉢植えに

2014年5月10日土曜日 晴れ

ブログ担当Tの好物にセロリがあります。以前スーパーで買ってきたセロリ、売り場で水に浸かっていたので、あまったセロリを水につけておいたところ、元気に長生きしてきておりました。

そして現在のそのセロリがこちら↓

20140510 セロリ水耕栽培

ガラス瓶に入れてるだけです。葉が青々として生き生きとしています。(ガラス瓶のゴールドブレ〇ドというラベルには注目しないでください。)

いつからか、最初はなかった根っこが伸びてきて、今では沢山の白い根っこでまさに「水耕栽培」状態になってきました。

20140510 セロリ水耕栽培根っこ拡大

さてここからが実験です。ちょっとこのままだとかわいそうかなと感じましたので、植木鉢に引越しさせてみたいと思います。

20140510 セロリ水耕栽培を鉢植えにする

今まで水いっぱいの状態でしたので、水分は大目にしていこうと思っていますが、はたしてこのままさらに大きく育てることはできるのでしょうか?そして育ったセロリを美味しくいただくことはできるのか?

セロリは高原の植物なので、このまま部屋で育てることになりそうです。というか、さきほどの白い根っこが無事に鉢植えの土に根付くことができるのか。

頑張れセロリさん!

 

・2014年5月9日のコロコロ変わる空模様 積乱雲、ゲリラ豪雨、突風、夕焼け

2014年5月9日金曜日 晴れ→雨→晴れ

本日は天気予報で「昼過ぎに激しい雨が降り、すぐあがります」と聞いていました。

そして丁度昼過ぎ、一度目の激しい雨は食事をしていて見逃してしまいましたが、その後の空模様を定点にて観察することができました。

 

13時

20140509 空模様の推移 13時DSC_0090 20140509 空模様の推移 13時DSC_0089 20140509 空模様の推移 13時DSC_0092

↑左から南、西、真上です。先ほど激しい雨が降りましたが、西から色の濃い雲がこちらに進んできています。

 

13時50分

20140509 空模様の推移 13時50分DSC_0094 20140509 空模様の推移 13時50分DSC_0093 20140509 空模様の推移 13時50分DSC_0095

↑左から南、西、真上です。一気に暗くなってきました。西から近づく雨雲が真上に広がった感じです。このあと第二段の雨が降りました。

 

15時19分

20140509 空模様の推移 15時19分DSC_0097 20140509 空模様の推移 15時19分DSC_0096 20140509 空模様の推移 15時19分DSC_0098

↑左から南、西、真上です。二回目の雨は終わりましたが、今度は突風が吹き荒れています。昨年春にありました「煙霧」に少し似た空気になりましたが、昨年の煙霧ほど埃で空が見えない状態までにはなりませんでした。が、かなり埃が空に舞っているのが分かりました。地平線方向が茶色です。

 

17時

20140509 空模様の推移 17時DSC_0101 20140509 空模様の推移 17時DSC_0100 20140509 空模様の推移 17時DSC_0102

↑左から南、西、真上です。積乱雲はどこかに消えてしまいました。突風も弱まってきました。西の空は太陽があって眩しいですが、秩父連山が見えるようになっています。地平線ちかくに見える茶色い空気はまだまだ残っているようです。

 

そして18時半

20140509 空模様の推移 18時半DSC_0105 20140509 空模様の推移 18時半DSC_0109

日没です。

 

時間を追って空の様子を見てみると、比較できる写真が残せました。

 

綺麗な富士山の様子や、綺麗な夕焼けの様子もいいけれど、たまにはコロコロと変化する空模様を見てみるのも面白いですね。

 

 

・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

2014年5月9日金曜日 晴れ

先日の長宗我部元親公のお墓参りに続きまして、元親の長子で戸次川の合戦で戦死した長宗我部信親のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました。

雪蹊寺は高知市長浜の、長宗我部元親公のお墓の比較的近くにあります。場所はこちら↓ 

雪蹊寺は四国八十八か所の33番目の札所です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0468- 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0469

県道に面した入口には「雪蹊寺(33番札所)」の文字とともに「長宗我部信親の墓」の文字のある看板↓もあります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0470 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0472

↑四国のへんろ道を世界文化遺産に・・・世界遺産を目指しております。「人生御遍路」です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0474-

延暦年間(782~806)に弘法大師(空海)が開基。ということなので、1200年以上前に建てられたお寺です。もとは高福寺と言いましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天像(国重文)が安置されたことから慶運寺と改称された経緯があります。その後戦国時代に長宗我部元親の法号にちなんで雪蹊寺と改称されました。儒教の南学の中心地とも言われています。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0473 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0475 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0476 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0478

歴史あるお寺だけあり、古い石塔がたくさん並んでいます。

実はここ雪蹊寺はすぐ隣に「秦神社(はたじんじゃ)」があります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0483

秦神社の御祭神は長宗我部元親。長宗我部家は秦の始皇帝の流れを組むという渡来の豪族、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔を名乗っていました。そのためここ秦神社には秦家累代の霊と、家臣忠死者も配神として祀られています。神社の拝殿の幕には、かたばみの紋が。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0479 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0481 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0484-

長宗我部家の家紋は「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。そのため、雪蹊寺、秦神社には↓の「丸に七つ酢漿草紋」の戦幟がいくつか配置されてました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0509

明治の世になり、廃仏毀釈の中、雪蹊寺が一時期廃寺となった際、雪蹊寺に収められていた衣冠束帯姿の長宗我部元親木像をご神体として秦神社が祀られました。なので、秦神社の建立は明治4年です。神社には木造のほか、国指定重要文化財である絹本著色長宗我部元親画像もありますが、現在は高知県立歴史民俗資料館(長宗我部氏の岡豊城跡)に委託保管されています。

秦神社への参拝後、すぐ隣の小高い山にある神社もあわせて参拝。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0486 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0485

長宗我部家臣が奇跡の神鏡を拾い命拾いしたために作られた西宮神社(えびす様)。石段を登った先に社殿があります。実はこの小高い山は、長浜城跡なのです。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0482

西宮神社はその小高い城跡の一部に祭られています。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0489

位置的には、秦神社のすぐ横、雪蹊寺の裏手にあたります。なので、雪蹊寺の見事な墓石がちらほら目に入ってきたりもします。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0490

それでは隣の雪蹊寺に戻ってみます。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0491 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0494 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0506- 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0508-

臨済宗のお寺様ということで、凛とした造りのお寺に感じられます。33番札所なので、お遍路さんもいらっしゃってます。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0492 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0493-

四国八十八か所のお寺は、弘法大師さまが開いた霊場なのですが、ここ雪蹊寺のように必ずしも真言宗のお寺ではないというところも多々あります。臨済宗の雪蹊寺にも↑のように大師像が置かれていたりします。また、柄杓が篤志の方から奉納されていたりと、なかなか興味深いものを感じました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0495 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0505

境内を歩いていると、「長宗我部信親公墓所」の案内を発見しました。↑実は右の写真、一番奥の木立の中に宝篋印塔の信親公墓所が見えているのですがわかりますでしょうか?

墓所の手前に案内板が。ここには信親公のお墓だけではなく、戸次川戦没者供養塔、香宗我部系の出で雪蹊寺中興の祖であり、関ケ原戦後の浦戸一揆の際に仲に立って開場に貢献したという月峰和尚のお墓もあります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0496

お寺の裏側に木漏れ日の中にお墓はありました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0502 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0497

↑中央に信親公の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、左に戸次川戦没者供養の五輪塔が、右には月峰和尚の丸い無縫塔(むほうとう)があります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0499

お父上の元親公のお墓と比べて一回り小さいサイズではありますが、とても立派で保存状態のよい宝篋印塔です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0501

長宗我部家が関ヶ原で西軍につかず、大坂の陣で滅亡せず、江戸から明治まで残る大名になっていたならばもっと大きなお墓になっていたことでしょう。

↓戸次川戦戦没者供養塔です。こちらもとても美しいカタチの五輪塔です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0500

長宗我部信親は、長宗我部元親の長男として、将来を嘱望されていた武将です。

父元親は四国平定したものの、その後秀吉に屈服さぜるを得ませんでした。その後の九州征伐にて他の四国勢とともに島津氏と戦うこととなります。窮地に立っていた大友氏を助けるためという名目です。秀吉勢として父元親とともに出征した信親。秀吉の軍監仙石久秀の指揮のもと、戸次川の合戦にて秀吉勢は総崩れとなってしまったのですが、その際に多くの将兵が命を落としました。阿波の有力大名の十河存保(そごうまさやす)や、そして長宗我部信親と多くの供の者(700余名)も命を落としたのです。まだ22歳でした。

信親は身長184センチ、色白の長身だったようで、元親によって跡継ぎとして育てられてきたのですが、家臣の信望もとても厚かったようです。信親の「信」の一文字は織田信長からもらったのですが、その信長からも養子にほしいと言わせた程だったとか。そんな元親の後継者が他の若い多くの将兵とともに戦没したため、この後の長宗我部家は一気に衰えていってしまったとのことです。

戸次川の合戦についての記録は、雪蹊寺からも近い長宗我部元親初陣像の足元にもありますので、よしろければそちらもご覧ください。

~ ~ ~ ~ ~

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・・・・・??何事?  追突されました。皆さんもお気をつけて。

2014年5月8日木曜日 晴れ

今日は、大塚本社のSYさんからの記事になります。先日の話だそうです。以下本文↓

 

・・・・・??

何かな・・・?

あ、追突された。

あまりの衝撃で、一瞬わけもわからず。

少々冷静になると、背中に痛みが(かなり強打しました)

信号停止中で、背後の車は脇見運転。

ノーブレーキだったと、警察の方から教えてもらうも、痛い。

そして、なんと明日からはGW。病院が開いていない。連休中、

痛みと向き合いながら、仕事。

そしてシップで対処。

皆さんも気を付けて。

追突されました。皆さんもお気を付けて。

 

 

・長宗我部元親公のお墓をお参りしてきました。

2014年5月7日

ゴールデンウィーク中に、四国の戦国大名の長宗我部元親、信親親子のお墓をそれぞれお参りしてきました。

まずは長宗我部元親公のお墓を訪ねてみます。場所はこちら↓ 

↑高知市長浜にあるのですが、小高い山の南面にお墓はありました。地図内の桂浜には先日記事にしました坂本龍馬像があり、鎮守の森公園緑地と書いてある近くにはこちらも先日記事にしました長宗我部元親像があります。おなじく近くにある雪蹊寺には元親の息子信親のお墓があります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0466

高知県道34号桂浜はりまや線を南に桂浜方面に進んでいくと看板が見えてきます。県道34号は二筋になっていますが、桂浜に近い方の道です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0465

突き当りまでくると、ここから先は徒歩でしか進めなくなります。様々な案内板が出迎えてくれます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0447

長宗我部元親は土佐を統一し、四国全土を制圧した戦国武将、大名です。秀吉の軍門に降り領土も四国全土から土佐一国に減封されましたが、京都伏見での病没後、後事を託した盛親の代にて関ヶ原の合戦、大阪の陣によって長宗我部氏は歴史上から消えてしまいました。お墓は宝篋印塔のカタチをとっているようです。

長宗我部元親公のお墓DSC_0446 長宗我部元親公のお墓DSC_0448 長宗我部元親公のお墓DSC_0449

この奥の石段の上にあるようです。

長宗我部元親公のお墓DSC_0463

新緑のこもれびが気持ちの良い細道が続いていますので、奥に進んでみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0451 長宗我部元親公のお墓DSC_0453

石段になる手前に、たくさんの石塔や祠が集められている場所がありました。「兵士の塚」とあります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0452

関ヶ原戦で西軍となった長宗我部家の家臣が1600年12月に起こした浦戸一揆。その戦死した兵士を祀っているもののようです。

さて、では石段を登って先に進んで行ってみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0454 長宗我部元親公のお墓DSC_0455

石段はあまり長くはなく、すぐに墓所に到着できました。

重厚な灯籠と柵に囲まれた宝篋印塔の墓所です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0461 長宗我部元親公のお墓DSC_0456

おそらく明治まで続く大名家となっていたならばこんなに気軽にはお墓参りは出来なかったことでしょう。規模ももっとずっと大きくなっていたのではないでしょうか。

それにしても、やはり立派な宝篋印塔です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0458 長宗我部元親公のお墓DSC_0459

宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、元来は「宝篋印経」という経典をいれる仏塔のことを指していましたが、その形状のみの進化が進み、身分や位の高い方、篤信の方の供養塔として現在でも使われている形状の供養塔になります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0460

1599年没の長宗我部元親、もうあと少し生きていたならば、関ヶ原にてどういう活躍になってその後の長宗我部氏や土佐国がどうなっていたのだろう・・・と考えてしまいます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0462

元親公ゆかりの方が整備されているようですね。ご先祖様を供養する、それが戦国大名のご先祖様でなくともどちらの家でも共通した思いはあることと思います。お参りさせてもらう側として、整備いただいていることはとてもありがたいことですし、何より眠られている元親公の魂もやすまることと感謝いたします。

長宗我部元親公の長男、信親公のお墓はここの近くの雪蹊寺にあるのですが、そちらもお参りしてきましたので別の記事にてご紹介いたします。

~ ~ ~ ~ ~

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・20140502 東名高速鮎沢PA(上り)から見える、朝焼けの赤い富士山

2014年5月7日水曜日 晴れ

ゴールデンウイーク中に、綺麗な朝焼けの富士山を見ることが出来ました。

-20140502 東名高速鮎沢pa上りから見える富士山 朝焼け 赤色-20140502 東名高速鮎沢pa上りから見える富士山 朝焼け 赤色1

場所は、東名高速道路の鮎沢PA上りから。朝もやの中、赤く染まった富士山が目に入ってきてとてもびっくりしました。

富士山をほぼ真東が見る位置にあたるのですね!

写メをとった時間が朝の4時57分。日付は2014年5月2日。このあたりだとおそらく日の出の時間は4時46分くらいのはずなので、日出後の富士山が赤く見える絶妙のタイミングで鮎沢PAにたどりついたことになります。そのラッキーなタイミングにも驚きました。お日様と富士山に感謝です。(ここ神奈川県山北町は、経度が前橋市や新潟市と近いようなので、前橋市、新潟市の日の出の時間を調べてみました)

人もまばらな鮎沢PAでしたが、私の他に何人もの方が赤い富士山を写真に収めていました。

ご利益あるかな?

 

さて、弊社大塚では、富士山を見ることができる霊園もいくつもご案内しております。埼玉県の富士山のよく見える霊園としては、西上尾メモリアルガーデンや、さきたま霊園などが。千葉県ならメモリアルグリーン流山聖地、東京都ではメモリアルフォレスト多摩、神奈川県では、メモリアルパーク藤沢都筑まどか霊園南葉山霊園、などが富士山を見ることができます。

お気軽にお問い合わせください。
※神奈川県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

※東京都の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

※千葉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

※静岡県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

・正しいお墓の買い方 [その7] 墓石の大きさ 墓石に刻む文字

正しいお墓の買い方 [その7]

(前回 正しいお墓の買い方 [その6]

10.墓石の大きさ。

大きいお墓が良い、小さいお墓は悪いというものでは全くありません。大切のは、死者への供養の心を込めて作られたか否かです。例え小さくとも、心のこもったお墓であれば、気に入った石種で、ご予算に応じてお作りになられてら良いと思います。

 

11.墓石に刻む文字。

墓石に文字を刻むようになったのは、平安時代の終わり頃のようです。当初は経文や梵字を彫りましたが、室町時代に入って仏の種子、仏像、名号、題目などが彫られるようになり、仏塔としての性格が顕著になりました。江戸時代にはいって、庶民が建立するようになった三段型の墓石は、当初、仏塔として亡くなられた方のために一人一基ずつ建立され、棹石の正面頭部に宗派によって仏を表す「円」大日如来を表す梵字の「石塔の梵字-ア-大日如来(ア)」「妙法」などを入れ、その下に「南無阿弥陀仏」「妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」などの題目を彫り、側面に仏弟子となった故人の戒名、法名を記しました。

明治時代に入ると仏を表す円や名号、題目が欠落し、家紋や個人俗名が刻まれ、仏教的な意義付けが、次第に薄れました。大正から昭和にかけて民法に家制度が導入されると、仏塔として個人墓だった墓石は家墓、先祖代々墓となり、仏弟子の証として刻まれた戒名も墓誌(法名碑)に記されるようになり、仏塔としての墓石は完全に形骸化し、墓石に刻む文字への制約もなくなりました。

そして、家制度が崩壊し核家族化、少子化が進んでいる今日、お墓も家族墓、夫婦墓、両家墓、個人墓、永代供養墓など、急速に多様化し、それに伴って墓石に刻まれる文字も思い思いに好きな文字や言葉が刻まれるようになりました。

 

(全優石「正しいお墓の買い方」より抜粋)

正しいお墓の買い方 [その8]へ

・40年前の1970年代、20年前の1990年代の航空写真をWEBで見る

2014年5月5日月曜日 曇り

先日の記事(グーグルマップとヤフー地図とGoo地図)で、『各社の膨大な地図データや航空写真画像データ、「現在」を知るだけではなく、過去を知るという知的欲求のためにも、各社手がけ始めてくれるととてもありがたいな~』と書きましたが、

少し調べてみると興味深い記事にたどり着きました↓

Googleマップの航空写真モードで「40年以上昔の日本」を見れるサービスに驚愕!

約一年前のAPPGIGA!!(アプギガ)さんの記事なのですが、どうやら国土地理院の1970年代の航空写真データをグーグルマップ上で見ることができるとか。見ることができるのがこちらのサイトです⇒「Googleマップを使って国土地理院の地図を見る」こんな感じの地図閲覧が可能です。

地図1

↑こちらのページの右上のボタンを拡大してみます。

Googleマップを使って国土地理院の地図を見る

こちらを操作すると↓が現在の東京ドーム

地図2

↓こちらが1970年代の後楽園球場です。

Googleマップを使って国土地理院の地図を見る 後楽園球場と東京ドーム

比較できるのってすごいですね!1990年代も見ることができます。

そして少しこのサイトを調べてみると、どうやら沼津工業専門学校の地理の先生のページだということがわかりました。地図を活用してさまざまな取り組みをされているようで、このページとか、このページを見てみるととても興味深く感じられました。

~ ~ ~ ~ ~

そしてその航空写真の元になっている「国土地理院」ですが、実は私も時々見に行っていました。ただし、よく見ていたのは「ウォッ地図」というWEB地図でした。国土地理院が元データだということなので早速、国土地理院ウォッ地図のサイトに行ってみましたところ・・・

ウォッちずは平成26年4月1日以降地図を更新しておらず、平成26年10月1日をめどにサイトを停止する予定です。なお、最新の地図は「地理院地図」でご覧いただけます。

とのこと・・・。時々活用させてもらっていたので残念ではありますが、その「地理院地図」のページを見てみたところ、残念さが驚きに変わりました。

地図01 地図03

↑こちらは「地理院地図」の最初の画面と、例として宮城県女川町の2011.3月の航空写真です。

地図02 地図04

↑そしてこちら、左が2007年ごろの女川町と、右は1970年代の女川町です。

この「地理院地図」、実に様々な機能がついており、地図05

現在の航空写真のほか、1990年代や1970年代の航空写真、東日本大震災の津波被災地については被災直後とその後の様子など三段階に時系列がわかれて記録されています。そのほかにも色々な見方使い方が可能そうです。

「地理院地図」すごいです。

~ ~ ~ ~ ~

以前の記事で書きました『各社の膨大な地図データや航空写真画像データ、「現在」を知るだけではなく、過去を知るという知的欲求のためにも、各社手がけ始めてくれるととてもありがたいな~』という個人的な希望は「各社」ではないもののかなり希望がすでにかなっておりました。よく調べてから書けばよかったです(^_^;)

昔の航空写真を見ることができる。とっても興味深く見ることができますので、ぜひぜひ一度見てみてはいかがでしょうか?

Googleマップを使って国土地理院の地図を見る」も「地理院地図」もどちらもおススメ地図サイトです。

※ただし、エリアによっては縮尺やそもそも航空写真を撮影されていなかった時期もありますのでご注意ください。

※また、航空写真の閲覧は今のところPCでの閲覧を想定されているようですので、スマホやタブレットの方はパソコンから見てみてください。

~ ~ ~ ~ ~

別記事になりますが、昔の地図の比較ができるサイトを紹介した記事がこちら↓。これも興味深いですよ!

・これはすごい!時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

~ ~ ~ ~ ~

さて弊社は首都圏にて霊園と墓地をご案内・ご紹介し墓石の製造販売をしています石材店です。このように古い写真や元来の地形を確認するのは、いいお墓探しやよりよい墓石建立のためもあります。元々はどういった土地だったのかという点については、お墓だけでなく様々な家や建物など不動産や日々の安全、地域の歴史を知ること以外にも、私たちの仕事のような後世に長く残るような「お墓作り」という仕事にとってもとても大切なことです。たとえば古い神社やお寺は高い土地に建っていたり、昔の墓地が山の上にあったりなど、それぞれ理由があるためです。

そのようなわけで、本記事のように調べてみたりなどしています。

お墓作りにご興味のある方は、資料請求や霊園墓地のご見学についてお気軽にお問い合わせください。

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・長宗我部元親初陣像を見てきました

2014年5月4日 日曜日 薄晴れ

昨日の記事に引き続きまして、高知県で見てきました銅像訪問記です。昨日は坂本龍馬先生銅像でしたが、今回は戦国大名の長宗我部元親公。しかも初陣像だそうです。昨今、ゲームや小説等でファンになった方の訪問もあとをたたないとか。

場所はこちら↓https://goo.gl/maps/llEpv 

高知市中心部から桂浜まで通る県道の高知県道34号桂浜はりまや線を、中心街から桂浜方面に向かうと右手に見えてきます。↓この戦国時代のノボリ風の看板が目印。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0271

「どろんこ祭り」で有名な高知市長浜にある若宮八幡宮の境内地、参道わきにあります。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0273 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0272

坂本龍馬象のある浦戸の桂浜や、長浜の雪蹊寺からも遠くありません。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0270 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0269

馬防柵や物見やぐらの解説がありますが、この地は長宗我部元親初陣の地。1560年22歳の初陣でした。若宮八幡宮の社頭に陣を張り戦勝を祈願し、本山氏の守る長浜城を陥落させ、その後「土佐の出来人」と呼ばれるようになります。このことからこの地に像が建てられました。その後15年で土佐を統一。25年後には四国全土を掌握(1585年)。その後秀吉の軍門に下り、慶長四年(1599年)に61歳で京伏見の館で没しました。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0274 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0297

没年が1599年ですが、関ヶ原の戦いが1600年。跡継ぎの長宗我部盛親が西軍に与し、しかも事情はあっても全く戦働きをしなかったために大名としての長宗我部家は終わりを迎えてしまいました。元親がもう2年生きていたら、全く違う歴史になったのではないでしょうか?高知に山内家も来ることなく、そうすると幕末に坂本龍馬も武市瑞山も中岡慎太郎も岩崎弥太郎も生まれなかったのかもしれません。

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石造りの柵の向こうに銅像が見えてきました。

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新緑越しに見える銅像はかなりかっこよく見えています。実際かっこよかったです(^-^)

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兜には、はっきりと「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」の紋が見られます。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。 長宗我部氏は秦氏の流れの一族です。

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長い槍が印象的で、また動きも迫力がある銅像です。全国のカッコいい銅像のベストテンには入っているのではないでしょうか?左手は何かをつかもうとしているのか、押さえつけようとしているのか・・・

答えはその手の先にありました。

四国全土の地図が足元にあります。そして地図には各地域に蟠踞していた大小名の名前が。

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四国を一掴みにしていたわけですね。

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銅像の傍らには↓このようなものも。

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戸次川の戦いについて。秀吉の軍門に下った長宗我部家は、島津九州征伐の際に他の四国勢とともに出征。大敗を喫してしまい、他の大名有力者とともに長男で英名のほまれの高い長宗我部信親と多くの群臣を失ってしまいました。信親がこの時に戦没していなければ、その後の長宗我部家の運命も大いに変わっていたと言われています。

ちなみに信親の「信」の一文字は、中央で覇を唱えた織田信長とよしみを結ぼうと元親が息子のために信長からもらったものです。でもその信長からは「鳥無き島の蝙蝠」と元親を指して揶揄されてもいたとか。戦国時代の外交は難しかったのでしょう。※鳥無き里の蝙蝠という慣用句があり、信長はそれを転用したわけです。四国なので「島」なのでしょう。

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戸次川で亡くなった信親の供の方々の名前が列記してありました。

なお、来る2014年5月17日(土)には元親の本拠地だった岡豊城で長宗我部フェスが、ここ若宮八幡宮では5/18(日)に長宗我部祭りが開催されるとか。戸次川でともに戦った豊後大友宗麟鉄砲隊の演武や、甲冑武者行列、戦国BASARAで長宗我部元親役を演じた石野竜三氏のトークショーもあるなど、ものすごく内容盛りだくさん。タイミングが合えば見てみたかったです。

と、高知では近年、長宗我部アゲが勢いついているそうです。もっともっと盛り上がるといいですね!

昨日の記事にも書きましたが、銅像はモニュメントであり記念碑でもあります。弊社大塚の作る墓石もモニュメントであり記念碑でもあります。各地の様々な記念碑を見て勉強していこうと、ブログ担当Tは感じました。

このあと、長宗我部元親のお墓と信親のお墓にもお参りしてきましたので、それはまた別の記事にしてみます。

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2014年5月3日土曜日 晴れ

坂本龍馬の視点に立って、現代の日本、太平洋を見て考えてみる。

難しい話ではありません。つまりこういうことです↓

 

 

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銅像業界(?)の中でも特に有名な、坂本龍馬像の目線の高さに立ってみる!

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と、そんな期間限定の催し物に行ってまいりました。

それでは、現地入りから時系列であらためて書いて行ってみます。

高知県高知市の観光名所、桂浜に向かいます。月の名所の桂浜です。坂本龍馬像のある場所、それが桂浜です。

場所はこちら↓https://goo.gl/maps/XzkL3       20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0339 20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0340 20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0345

桂浜駐車場に到着。桂浜は遊泳禁止の浜です。景観が損なわれるとかそういうことではなく、単に「急激に深くなっており、また波も荒いため危険」だからです。案内板を見て場所を確認したら坂本龍馬像を目指します。龍馬像は桂浜に面した小高い丘の上、松林の頂上にあります。

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後姿が見えてきました。

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台座のプレートには「時 昭和三年五月  建設者 高知県青年」とあります。有志のみなさんによって建てられたということは有名ですね。

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平成26年、2014年4/12土~5/18日までの期間限定にて「龍馬に大接近」の催し物が開催されています。入場料はなんと100円!坂本龍馬ファンにとっては、アイドルの握手会に行くアイドルファンの方や、特急の最後の雄姿を写真におさめる撮り鉄さんのような、とっても貴重なイベントです。何せ普段は坂本龍馬の目線に立つなんてできませんので。

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坂本龍馬像を見たことのある方ならば、↑こんな感じで見た記憶があるのではないでしょうか?ですが今は像の隣に「心はいつも太平洋ぜよ」と書かれた赤い欄干の櫓があるのです。

櫓の足元には説明書きがありました。(クリックすると元画像が表示されます。)

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ではせっかくですので櫓にのぼってみます。ここまで来て登らない手はありませんし。

櫓の内部は、想像通り単管で工事現場チックに作られていますが、足元は広く作られていて、しかも手すりもついています↓ただし、こういった場所を歩いたことのない方にとっては、プチ工事現場体験にもなるかもしれません。

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頂上に着きました。

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携帯電話、カメラ等を落とさないよう注意しましょう。

そして記事冒頭の光景が目に入ってきます。

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下から見上げた想像よりもずっと高く感じられました。坂本龍馬は太平洋の朝日が昇る東を見つめています。「日本の夜明けぜよ」ですね。

櫓の上の欄干内はそんなに広くないのですが、少しだけ角度を変えて撮影することができます。角度によっては見え方が大分変ってきます。表情や考えていることも変わって感じることもできるかもしれません。

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↓遠くを進む柱のある船、なんとなく幕末の大きな帆船に見えなくもありません。

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ところで、坂本龍馬さんが見ている視界には何が見えているのかと言うと・・・

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土佐湾が広がっています。

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港を行き来する船や、↓一番右は種崎海水浴場です。長宗我部の遺臣が相撲大会で悲劇にあった場所でもあります。

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足元↓には、坂本龍馬像を見上げる人たちと、アイスクリンやさんが見えました。坂本龍馬もアイスクリンを食べたいことでしょう。

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余談ですが、アイスクリンというのは、アイスクリームの誤打ではありません。明治2年に日本で初めて横浜馬車道で販売された時の名称が「アイスクリン」でした。その後、牛乳や生クリームの代わりに卵や脱脂粉乳を用いたものを「アイスクリン」と呼ぶようになり、アイスクリームとは別物として歩んできたのですが、現在では沖縄や高知、大阪城公園などの一部でしか見ることができなくなりました。が、ここ高知県では全県で味わうことが出来る美味しいスイーツなんです。

たくさん写真も撮りましたので、櫓を降りてみます。アンケートに答えるともらえるという絵葉書をもらいました↓

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ハガキは三種類あるのですが、手に入れたのは「世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞしる」の龍馬自筆の書の書かれているハガキでした。十代の青年坂本龍馬が詠んだ有名な歌です。

さて、せっかく桂浜まで来たのですから、名勝桂浜、坂本龍馬も愛した桂浜を歩いてみます。

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太平洋はでかいです。海なし県の住人としては、波打ち際が見えるだけでテンションが上がってしまいます。

右手の奥には竜王岬が見えています。絵葉書などにもなる有名な「ザ・桂浜」というアングルです。

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救命ペットボトルと、危険への注意喚起の看板がところどころあります。テンションあがっても、桂浜では海に入ってはいけません。

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振り返ってみます。

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↑岩がありますが、かなり巨大な岩です。人間が見えているので比べてみてください。

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岬の上に立つ神社を目指してみます。

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海津見神社(わたつみじんじゃ)です。竜王宮です。こちらの案内板によると、御祭神は大綿津見神(おおわたつみかみ)。完全に海の神様ですね。創建は不詳ですが、長宗我部時代とも言われているようです。

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最近、海難事故などもニュースにのぼったりしています。海の安全を祈ってきました。社殿内の依代はなんと石塔でした。

振り返って岬の付け根を見てみます。

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↑左が西浜、右が本浜(桂浜)です。かなり険しい岬だということがわかります。

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↑広さのない岬の上の神社なので、社はコンパクトです。絶えず強い海風にさらされているので、社や鳥居など石造りの箇所の風化もとてもはやいようで、内陸にある石造りのものとは大違いの様子でした。

↓こちらの写真、何もないように見えますが、実は中央に坂本龍馬像の頭が見えているんです。拡大するとわかりますよ。

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岬の足元は、太平洋の親潮が荒々しく水しぶきを上げていました。

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↓ここから見る桂浜の全景です。

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↓どうやら修学旅行か遠足か社会科見学か、学生さんがたくさん到着したようです。ここは遠足などのメッカでもあります。混雑する前にもどらないと・・・(^_^;)

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坂本龍馬の銅像を見に来ましたが、やはり桂浜はとてもダイナミックで美しい景勝地でした。

坂本龍馬の銅像はモニュメント。弊社大塚の仕事もお墓と言うモニュメントづくりです。たくさんの人が訪れるようなモニュメントはとても素敵ですね!今度はいつか坂本龍馬のお墓も訪問してみたいと思いました。

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近くに長宗我部元親の銅像もあります。訪問記事→長宗我部元親初陣像を見てきました

 

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