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記念碑・モニュメント」カテゴリーアーカイブ

・不動ヶ岡不動尊 總願寺 初詣に行ってきました

2014年1月6日 晴れ

加須市にあります、不動ヶ岡不動尊に初詣に行ってきました。今日は六日ということもあり、初詣に訪れる人も少なく、また出店ももう出ていない状態で、静かにお参りできました。

ここ不動ヶ岡不動尊は、成田市の成田山新勝寺(成田不動尊)、日野市の高幡山金剛寺(高幡不動尊)、加須市の玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)と三つのお不動様に対して関東三大不動尊と呼ばれているひとつで、パワースポットとも言われています。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 山門 DSCN2676

金色に塗られた山門です。2011年から5か年計画での平成の大改修により、近年美しく生まれ変わりました。迫力のある仁王様もいらっしゃいます。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 山門 仁王様 DSCN2677 不動ヶ岡不動尊 總願寺 山門 仁王様 DSCN2678

↓山門には、十善戒と般若心教を彫った銘板が掲げられていました。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 山門 DSCN2679

山門をくぐると、正面に不動堂があります。お正月のBGMが流れていましたが、すいていて静かに参拝できました。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2680 不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2682

決して巨大ではありませんが、重厚感と存在感のある不動堂です。写真ではわかりにくいですが、迫力があります。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2683

現在の本堂は、江戸時代の天保年間に建てられたとか・・・天保というと、1800年代前半ですので、200年くらい前の建物です。

↓こちらは聖徳太子の碑です。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2685

ここ不動ヶ岡不動尊には様々な文化財があります。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2688

不動堂のほか、散蓮華模様青石塔婆、倶利伽羅不動剣、黒門、芭蕉翁句碑もあります。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2686

↓倶利伽羅不動剣のカタチをした奉納された石碑なども境内の随所にみられます。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2684

境内の西口にある黒門は、元は行田の忍城にあった北谷門を移築したものだそうです。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 黒門 DSCN2691 不動ヶ岡不動尊 總願寺 黒門 DSCN2689

↓こちらは散蓮華模様青石塔婆。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 散蓮華模様青石塔婆 DSCN2697

↓以下のように説明版にありました。

青石塔婆(板碑)は、緑泥片岩を用いた石塔婆で、鎌倉時代・室町時代に多く、関東地方で建立された。

この散蓮華模様の青石塔婆は、全国でもまれで近県では、佐野市の一向寺に一基あるのみである。

これは鎌倉時代末期のものであり、高貴な方の供養塔のようである。深彫りのキリーク(阿弥陀如来の種子)があり、対に刻まれた五輪塔にも尊厳さがみられ、誠に珍しい板碑である。

昭和五十三年四月 加須市教育委員会

↑以上、引用です。石材店としてはこういった歴史ある石碑にはついつい目がいってしまいます。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 散蓮華模様青石塔婆 DSCN2698

境内にはほかにもいくつかの歴史を感じさせる石塔が建っています。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2702

不動堂には、年男年女の著名人の名前がずらり。不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2693

そういえば、このお不動様は節分の豆まきの際には例年著名人が来ていて、昨年2013年は横綱 白鵬関や、大関 琴欧洲関も来られたそうです。今年は誰がくるのでしょうか。いまから楽しみです。

↓不動ヶ岡不動尊總願寺の由来もとても興味深いです。

不動ヶ岡不動尊 總願寺 DSCN2687

こちらも案内板をそのまま引用してみます↓

不動ヶ岡不動尊総願寺の由来

仁和二年(八八六年)秋、第五十八代光孝天皇は重い病にかかられ、どんな名医、妙薬も少しも効目がなく、日に日にご重態になられるはかりであった。そこで三井寺の開山、智證大師(弘法大師の甥)が、みことのりにより病気平癒を不動明王に御祈願申し上げたところ、たちどころに病気がなおられたので天皇は大師に不動明王のご尊像を刻ませ、同年冬、宮中の仁寿殿で開眼供養し、紫宸殿に安置して歴代天皇の守り本尊とされた。ある時、宮中の役人が明王の宝剣を持ち出して自分のものにしようとしたので明王をご守護申し上げていた堂守は、ある夜ひそかに明王を背負って生まれ故郷の吉見領へ逃れ仮堂を建てて安置した。

長暦三年(一三一九年)大洪水があり、付近一帯は泥海と化しご尊像はその流れの中を漂い、この地へとおつきになられた。里人達はご尊像の尊さに一同ひれふして、明王をおまつりし当時岡村と言われていた地名を不動ヶ岡と変えた。

その後元和二年(一六一九年)に高野山の総願上人がこの地に来られ不動明王の御霊験を讃えて玉嶹山総願寺を建立し、明王を御守護申し上げた。

以来今日まで不動明王を尊崇して参詣する善男善女の数多く、関東三大不動明王の随一として、信仰を集めている。

昭和五十五年三月 加須市

↑以上引用ここまで。

 

また時間ができたら訪れてみたいお不動様です。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・波除稲荷神社

2013年1月5日 くもり

今日は、東京都中央区にあります波除稲荷神社をご紹介いたします。

初詣ではなく、年末に築地に買い出しに行った際に待ち合わせ場所として寄らせてもらい、お参りしてきました。築地市場に行った時の記事はこちらです

今日1月5日は築地市場年始の初競りの日で、マグロの最高値が736万円(1キロ4万円)だとか。去年の1億5000万円に比べてかなりの落ち着きを見せたそうです。

波除稲荷神社に訪れたときは年末最終日だったので、とても賑わっていました。今日もとても賑わっていたのでしょうね~。市場で働く皆さんがあわただしく行き来しています。

築地 波除稲荷神社 DSC_0013

↑築地波除稲荷神社の入口です。右方向が築地市場の場内、左側と自分のいる後ろ側に場外のお店が広がっています。

築地 波除稲荷神社 DSC_0015

↑神社の後ろに見えるのは立体駐車場。市場を取り囲むように、いくつかの大きな立体駐車場があります。

築地 波除稲荷神社 DSC_0016

巨大なお獅子のあたまが!とっても重そうです。赤い獅子と、黒い獅子がいるのですね。ご祭神を守っているそうです。

築地 波除稲荷神社 DSC_0017

↓拝殿の前には、茅の輪くぐりがありましたので、私も左足から三度くぐってきました。

築地 波除稲荷神社 DSC_0018

築地を守る神社だけあって、市場関係者のみなさんからの石碑の奉納がいくつもみられます。どちらもとても立派な石碑です!

築地 波除稲荷神社 DSC_0019

↑玉子塚と、↓すし塚。

築地 波除稲荷神社 DSC_0020 築地 波除稲荷神社 DSC_0022

↑海老塚。↓左から鮟鱇(あんこう)塚と、活魚塚。

築地 波除稲荷神社 DSC_0023

↓お稲荷様です。

築地 波除稲荷神社 DSC_0024

↓さきほどの黒い獅子頭のある獅子殿にはこんな写真もありました。例祭である「つきじ獅子祭」の様子です。獅子頭を輿にのせて担いでいるのがわかります。すごい迫力と空気感が伝わってきました。このお祭りも一度体験してみたいお祭りです。

築地 波除稲荷神社 DSC_0025

波除稲荷神社は、波除とあるのでてっきり津波が来ても大丈夫だった神社なのかと勘違いしていたのですが、どうやらそうではないようです。

江戸湾の埋め立てを進めていた江戸時代初期、埋め立ての一番の難所がここ築地近隣だったようで、幕府の埋め立て計画の仕上げとして最後にここを着手したようです。難所ということで、いくら堤防をつくっても、その都度激しい高水がさらっていってしまう。ある日海面を光り輝くものが漂っていたので引き上げてみると、稲荷大社のご神体だったそうで、ご神体を丁重に祀ったところ、埋め立ての工事が順調に進むようになった。なので「波除」の文字をつけた稲荷神社となったそうです。

築地に魚河岸ができるずっと以前からある神社ですが、今では築地市場の守り神になっているのでしょうね。

中央卸売市場の移転の話がありますが、これからも変わらずこの地と東京の市場を守っていってほしいものです。

 

※東京都の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・上尾市 川の大じめ

12月21日

今日は大塚本社のあります上尾市にある古くからの慣わしをご紹介いたします。

大塚本社から車で10分ほど、西上尾メモリアルガーデンからは車で5分ほどの場所にある『川の大じめ』です。

上尾市 川の大しめ DSCN2545

JR上尾駅西口正面の道路をまっすぐ進んだ右側にあり、大じめと石碑と市の文化財の標識が立っています。「川の大じめ」の「川」とは、川という地名なのです。

上尾市 川の大しめ DSCN2546

平成3年12月1日に無形民俗文化財としして上尾市より指定を受けたようです。(↑西松屋さんは隣の敷地です)

上尾市 川の大しめ DSCN2547

↑こちらの表示板にはこう書かれています↓

 

上尾市指定 無形民俗文化財 川の大じめ

平成三年十二月一日指定

 春から夏にかけて、フセギといって村外から疾病などの災いが入ってこないように祈願する行事がある。「川の大じめ」は、このフセギの行事として、現在の川地区、旧川村に古くから伝承されている。

「川の大じめ」は、毎年五月十五日に、旧川村の入口に当たる旧道路上に、長さ五~六メートルの大きさのしめ縄を架け替える行事である。取り替える大じめは、旧川村の鎮守・神明神社で作られる。大じめのしめ縄には、中央部分に神の御札と榊を付け、これを馬のわらじで覆うようにして取り付ける。

当時は、道路が少なく、旧川村から他村に出入りするには、必ず「川の大じめ」をくぐる地理的な条件にあった。このため、「川の大じめ」の場所で疾病などを遮れば、旧川村に入ってこないということになる。

大じめのほか、長さ五十センチほどの縄を輪にした輪じめも六つ作る。輪じめは、大じめ以外の場所で、旧川村の集落から田や畑に向かう小道の出入り口に飾る。この輪じめと「川の大じめ」によって、旧川村は他所から入ってくる災いから完全に守られることになるのである。

平成二十一年三月一日

上尾市教育委員会

 

上尾市 川の大しめ DSCN2548

すぐ横には庚申塔(庚申塚)もあります。庚申塔は街道沿いや、集落の境界線に置かれているものです。まさに境界線ですね。石材店の人間としては、こういった石造りのものについつい目がいってしまいます。現在のような石材加工機械の無かった時代はすべて手作業で削り、たたき、彫刻して磨いていたことを思うと、昔の職人には頭が下がります。

上尾市 川の大しめ DSCN2549

文化九年とはっきり読み取れます。文化九年というと、西暦1812年で、徳川11代将軍家斉の世です。伊能忠敬が日本中の地図をつくりながら歩いていた時期で、杉田玄白が蘭学事始を、滝沢馬琴が南総里見八犬伝を書いていた頃でしょうか。世界史で言えば、ナポレオンがロシア遠征に失敗し、暗雲たれこめていた時代です。とにかく、200年以上前ということです。

上尾市 川の大しめ DSCN2550

↑正面から。↓見ざる言わざる聞かざるの三猿がいます。

上尾市 川の大しめ DSCN2551 上尾市 川の大しめ DSCN2552 上尾市 川の大しめ DSCN2553

わらじ?がしめ縄に取り付けられています。

普通の都市であっても、古くからの伝承というものがあったはず。忘れてしまう前に、消えてしまう前にこうして保存なりするということはとても大切なことに感じました。

 

 

・のぼうの城に登場した土堤、石田堤に行ってきました

12月13日金曜日

昨日、埼玉県行田市と鴻巣市にまたがるエリアにある「石田堤」に行ってきました。行ってきましたというより、通りがかりの途中にありましたので写真などを撮ってきたというところです。

石田堤とは、映画「のぼうの城」で舞台となった戦国時代に造られた堤跡です。豊臣秀吉による北条攻めの際に、石田三成が小田原方の忍城(埼玉県行田市)を攻略するために築かれた、長大な土堤のことです。この土堤は、荒川の久下(埼玉県熊谷市)から、ぐるりと忍城を遠巻きに包み込むように囲み利根川までの総延長約14kmとも28kmとも言われている規模に及んだものだそうです。

石田堤 忍城 水攻 推定 地図小

推定図を実際の地図(google map)に当てはめてみると、ものすごく大規模なことがわかります。すごいです。

石田堤 DSC_0061 石田堤 DSC_0062

石田堤史跡公園では、紅葉ももうすぐ終わりというような感じでした。

石田堤 DSC_0050

鴻巣市の看板が立ってました。

石田堤 DSC_0049

↓新幹線の高架下をくぐりながら公園は続いており、高架下の中央には矢倉が組まれてます。

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こういう俵に土を詰めて土手を作ったのですね~。これを担ぐ自信はありません(汗)昔の人はすごいです。

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↓矢倉には、さりげなく秀吉の紋(左の「太閤桐」)と三成が使用したとされている紋(右の「大一大万大吉」)があります。

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↓石田堤が向こうの方(吹上方向)まで続いています。(が、少し行くと住宅街の中に消えて行ってしまいます・・・) ※レンズフードが斜めにずれてしまっていたようです。

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窓ガラスのようになっている部分は、石田堤の断面が見えるようになっています。

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ここは断面見学施設なのですね~。

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土手の上にのぼってみました。道のように草が刈られてましたが、斜面である法面は熊笹がびっしりです。

新幹線の高架下のエリアには、イラスト付きの説明図があります。水攻めについて書かれています。浮城の異名のとおり、水に浮いているように見えたのでしょうね。

パソコンの場合は画像クリックで大きく表示されます。↓一枚目の絵の中央下部にある丸いところが丸墓山古墳。三成が本陣を置いた場所だそうです。(ということは、古墳も水浸しになったのですね~)

DSC_0041 DSC_0042

↓丸墓山古墳からの眺めは当時も現在もとてもよいのですが、一面の湖になっている状態はとても想像つきません。

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↓水攻めは土手の決壊により失敗に終わります。こちらの表示板には台風で・・・とありますが、映画のぼうの城では、主人公の「のぼう様」である成田長親を慕う村人たちによって堤が壊されて決壊となっていました。

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映画のぼうの城は、この決壊シーンが震災を連想させるということで、公開が丸一年延期になりましたが、無事に大ヒット映画となりました。私も劇場まで見に行きました。映画のエンドロールで現在の行田市内の各所が登場していましたね。まだ見ていないという方は、面白かったので安心してお勧めできる映画です。

俵にもいろいろと書いてあります。↓人夫の賃金は、忍城水攻めよりも高松城水攻めの方が分がよかったようですね~

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↑秀吉さんは、包囲する城攻めが得意だったようです。むやみに血を流したくなかったのかもしれません。

↓こちらは徳川の武将、榊原康政が忍城攻めに参加している武将の浅野長吉にあてた手紙の内容です。

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↓こちらは秀吉の朱印状の内容。同じく浅野長吉あてのものです。浅野さんは弾正小弼(だんじょうしょうひつ)という位をもらっていたようですね。(弾正小弼が変換候補で出てこない・・・)

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↓こちらは、秀吉が三成にあてた朱印状の内容です。原本は埼玉県立博物館にあるようです。

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↓さらに日付の違う朱印状。

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今日は時間がないのでここしか見ていませんが、この公園にはもう少し見る場所があります。

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石田堤はここのほか、先述のさきたま古墳にある丸墓山古墳に続く道としても残っていますし、ここの少し行田寄りの場所にも松並木として残っています。

また、石田堤とは違いますが、のぼうの城で準主役である正木丹波が忍城攻め後に戦没者を弔うために建てたというお寺が高源寺というお寺なのですが、ここは当社大塚が日頃お世話になっているお寺様です(少しだけですが正木丹波についても書いてます→高源寺のページ)。そしてこの高源寺さまが経営母体になっている、さきたま霊園もこの石田堤の近くです(→さきたま霊園のページ)。さきたま霊園は、さきたま古墳がすぐ近くなので歩いて丸墓山まで行くことができます。

歴史ファンの好きなスポットに行きましたら、また記事にしてみようと思います。

———

参考記事

・忍城水攻 石田堤 行田市 鷺栖神社

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その①

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その②

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・震災から千日。現在の三陸を見てきました。気仙沼~陸前高田~釜石

12月4日水曜日

本日は、震災から1000日ということで、さまざまな取り組みなどが各地で行われているようです。

先月の11月末に三陸は宮城県気仙沼市から、岩手県陸前高田を通って釜石市まで行ってきました。

現在の写真をダイジェストで掲載してみます。まず気仙沼の町はこのようになっておりました。

気仙沼 港 プラザホテル DSC_0301 気仙沼 港 プラザホテル DSC_0299 気仙沼 港 プラザホテル DSC_0298気仙沼 港 プラザホテル DSC_0297 気仙沼 港 プラザホテル DSC_0296 気仙沼 港 プラザホテル DSC_0293

津波により更地となった土地はまだそのままのところが多かったのですが、復興市などは賑わっていました。漁業も再開しており、日本各地からの船がここに来て稼働していました。

気仙沼 魚市場 DSC_0216気仙沼 港 漁船 DSC_0336

※気仙沼を訪れたときのブログ記事はこちらです。たくさん写真を上げています→気仙沼にきました!、 気仙沼の船、 気仙沼の船2

 

大船渡市の中心地は立ち寄ることができませんでしたが、被害を受けていなかったエリアや大きな工場などは元気に活動をしているのがわかりました。

 

陸前高田には立ち寄れました。復興に向けて、大規模な工事がなされていました。

陸前高田 DSC_0040 奇跡の一本松 DSC_0047

また、たくさんの方が奇跡の一本松を訪れていました。

奇跡の一本松 DSC_0037奇跡の一本松 DSC_0542

※陸前高田を訪れたときのブログ記事はこちらです。上記のほかにも写真を上げています→陸前高田 奇跡の一本松

 

釜石市も気仙沼同様、町は大きく稼働していましたが、津波によって被害を受けた土地がまだまだそのままになっておりました。

釜石-DSC_0790 釜石市役所-DSC_0823釜石-グランドホテル-DSC_0834 釜石-DSC_0795

※釜石市を訪れたときのブログ記事はこちらです。上記のほかにも写真を上げています→釜石市 市役所までの散歩

 

 

また、市街地の様子ではありませんが、津波を忘れないようにと取り組まれている「津波記憶石」も見てきました。ただ「津波石」ではなく、忘れないように次世代につなげていこうという取組みの「津波記憶石」です。石材業界の全国組織である「全優石」の事業です。順次各地に建てて行き、目標は500本の津波記憶石を建てることだそうです。

↓気仙沼市小泉小学校の津波記憶石

津波記憶石 小泉小学校 DSC_0010 津波記憶石 小泉小学校 DSC_0009

※訪問時の記事はこちら→津波記憶石 小泉小学校

 

↓こちらは大船渡市綾里駅の津波記憶石

津波記憶石 綾里 DSC_0060 津波記憶石 綾里 DSC_0066

※訪問した際の記事はこちら→津波記憶石 綾里(りょうり)

 

↓こらちは釜石市唐丹町の津波記憶石

津波記憶石 釜石唐丹 DSC_0073 津波記憶石 釜石唐丹 DSC_0089

※訪問した際の記事はこちら→津波記憶石 釜石市唐丹町

 

↓こちらは釜石市 根浜海岸(宝来館前)です

津波記憶石 釜石市根浜海岸 宝来館前 _DSC_0776 DSC_0106 DSC_0108

 

どちらの土地でも、震災の大きな大きな爪痕を残しながらも、復興に向けて力強く前に進んで行こうという意志とエネルギーを感じさせていただきました。

東北は、元気です。私たちも震災を忘れずに、一人一人が出来ることを積み重ねて前に進んでいきたいものです。

 

 

 

・平泉散歩 紅葉の写真

11月29日金曜日

先日の11月26日火曜日に平泉に行ってきました!ユネスコ世界遺産の平泉、中尊寺です。

到着してみると、なんと丁度紅葉で見事に染まった中尊寺を堪能できましたので、撮影してみた紅葉の写真をあげていってみます。

正面からの長い参道は通らず、金色堂横に出るルートから入りました。そうしたらいきなりの見事なモミジです!

DSC_0053 DSC_0055

↓金色堂です。手前は針葉樹なのですが、覆い堂周辺は綺麗なモミジでした。

DSC_0059 DSC_0060

 

↑見えているコンクリート製の覆い堂の中に、金色堂が鎮座しています。

↓こういった手水鉢も、紅葉のモミジに彩られると表情がまったくかわるものなのですね。

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それにしても金色に輝くもみじは美しいものです。

DSC_0073

↓苔のじゅうたんのこの場所の見え方は、実は私Tの中では平泉で一番好きなアングルなんです。紅葉のもみじと苔のじゅうたんになっていて、このシーズンでないとみられない景色になっていました。

DSC_0077 DSC_0081

↓一面のモミジで、本当に赤いじゅうたんのようでした。ため息が出てしまいます。

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真紅のモミジも綺麗で好きなのですが、黄色から赤に移り変わる途中のモミジもまた綺麗ですね!

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↓石材店の人間としては、やはりこういった灯籠などにも目が行ってしまいます。火袋が木材で組まれていました。

DSC_0096

↓こちらの石塔は、中段の二段がまるまる別の新しい石材に据えかえられていました。わかりますでしょうか?震災で倒れて割れてしまったのかもしれません。

DSC_0108 DSC_0116 DSC_0118

とにかく目の保養になりました。世界遺産平泉中尊寺。また機会がありましたら平泉に来たいものです。

 

 

 

・津波記憶石 釜石市根浜海岸(宝来館前)

11月27日 水曜日 晴れ

釜石市根浜海岸の宝来館の前に設置されました津波記憶石です。大塚も加盟している全優石での津波記憶石第一号として建てられました。

津波記憶石 釜石市根浜海岸 宝来館前 _DSC_0776

夕暮れで少し暗くなってきましたので、あまりはっきりと撮影できておりません。見えにくくて申し訳ありません(汗)

津波記憶石 釜石市根浜海岸 宝来館前 DSC_0097 

↑こちらの画像の右上にはバーコードがあり、3.11の際の動画など詳しい情報を見ることが出来ます。

↓ピントがあっていないため、うまく読み取れないかもしれませんが、アプリによっては読めました。・・・もう一度行くことがありましたらちゃんとした画像を撮ってきます(汗)

津波記憶石-根浜海岸-宝来館

裏側にはこのような文字が↓

企画 全優石、協力、協賛、製作、デザインとお骨折りいただいたみなさんの名前が並んでおります。

↓こちらは今回の津波で広く報道と紹介をされた宝来館。海岸沿いにあります。おかみさんのエピソードが有名です。

↓画像正面の中央にある、手すりの付いた山へ続く道まで津波があっという間に到達しました。

↓当時、急いで避難された場所である山の手すり辺りからは、このように見えます。

 

有名な動画なので見たことのある方も多いかとは思いますが、向こうの松林からこちらの山へ逃げてくる人と、それを追うように瞬時に襲い来る津波の映像は、大きな衝撃を受けました。(「宝来館 津波」と検索するとすぐに見つかります)

この宝来館は津波の避難建築物にもなっています。

まだまだ爪痕の残る根浜海岸ですが、いつの日かまた行楽客でにぎわう日が一刻も早く訪れるよう、いま自分たちにできることを考え行動しながら祈念いたします。

 

 

 

 

・津波記憶石 釜石市唐丹町

11月27日 水曜日 晴れ

釜右市唐丹町本郷地区にあります、津波記憶石の第三号です。

津波記憶石 釜石唐丹 DSC_0073

当初の予定では、中央の碑のみで考えられていたそうですが、碑に刻む言葉を募集したところ小中学生の皆さんの言葉がどれもとても印象強くズシンと心に響くもので、”選べない”ということになり、全ての言葉を刻むデザインと本数に変更となった、と聞きました。

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中央の石を正面からみると↓このように見えます。

津波記憶石 釜石唐丹 DSC_0074

デザインに波の模様が取り入れられています。一見して津波とわかるような津波記憶石です。津波記憶石には↓のようにバーコードがついており、2011.3.11の際の状況などがわかるようになっています。是非バーコードスキャンしてみてください。

津波記憶石 釜石市唐丹バーコード

津波記憶石の裏側です。協力されたみなさんが記してあります。

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↑「(株)大塚(上尾市)」の文字があるのがわかりますでしょうか?大塚もこの津波記憶石作りに携わらせていただきました。

この津波記憶石の隣には、明治の三陸地震の際の津波石と、昭和の津波石が並んでいます。↓左が昭和の際のもので、右が明治のものです。

DSC_0080

↓昭和八年と確認できます。

DSC_0081

↓明治の津波石です。

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↓明治二十九年六月と確認できます。

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↓こちらは平成20年に移転した際の碑になりますが、3.11の津波の際に流されいたるところ欠けたり傷だらけとなっているのが確認できました。石も流されてしまうというその勢いに、いまさらながら驚かされます。

DSC_0084

↓このような文字を刻んだ石も並べられています。傷跡が生々しく感じられます。

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↓津波記憶石には、太く深く文字が刻みこまれています。

DSC_0088

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釜石市唐丹町のここ、津波記憶石の設置されているのはこのような場所です。手前の低くなっている土地に50軒ほどの家があったということですが、今回の津波で流されてしまいました。右奥の方の地区に立つ家々は、以前の津波の際に高い場所に移転された方々の家です。

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右奥の方を拡大してみてみます。高台になっているのがわかります。

_DSC_0702 

少し進むと、やや小さめの津波記憶石があります。↓これは津波記憶石の四号なのですが、同型のものが25号まであり、それぞれ唐丹町での津波到達点に設置されています。

津波記憶石 釜石唐丹 DSCF5158

津波記憶石 釜石唐丹 -DSCF5164

津波記憶石より海方向を見ると、海から唐丹を守るように堤防が伸びています。

↓中央から右側にのびている堤防は、行政によりかなり前に整えられた堤防ですが、この堤防が完成されたことにより、ここ唐丹町で禁止されていた低い場所への住宅の建築が許可となったそうで・・・。(ちなみにここには美しい松林があったそうで、ここに写っている松のみが残ったということです。高田の一本松ではありませんが、「奇跡の二本松」と呼ばれているそうです)

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しかし、3.11の津波はこの堤防を越えてしまい、新しくできた低い土地の50軒が流されてしまうこととなったそうです。↓右側、堤防が壊れてしまっています。高い場所に移転された家々は無事だったそうです。堤防の向こう側には湾の入り口と海が見えているのがわかると思います。

DSC_0091 

この場所のすぐ上には「星座いし」と、伊能忠敬測量顕彰碑があることで有名です。伊能忠敬は全国くまなく測量した偉人ですが、その測量の基準にした場所がここ唐丹本郷の山の上だったそうで、測量の偉業をたたえる顕彰碑が建てられています。その顕彰碑は、全国にある伊能忠敬顕彰碑のなかで唯一の江戸時代に作られた顕彰碑になります。

歴史ある土地にできた新しい津波記憶石。今後、この土地では復興の新しい歴史を刻んでいくことでしょう。

 

 

 

 

・永代供養墓

永代供養墓

鴻巣霊園 永代供養墓

鴻巣霊園 永代供養墓

永代供養墓とは、生前に申し込みができて、承継者の有無に関係なく、永代にわたる供養と管理が約束されるお墓のことです。子供のいない夫婦や、生涯を独身で過ごす人の増加、さらには、自分が死んだ後にお墓のことで子供に負担をかけたくないという考えを持つ人が多くなり、従来とは異なる新しいお墓の形態として、近年、社会的にも大きな注目を集めるようになりました。

桶川霊園 永代供養墓

桶川霊園 永代供養墓

一口に永代供養墓と言っても、それにはいくつかのタイプがあります。代表的なものは、共有の納骨施設の上に記念碑や宗教的なシンボル(仏像など)を建てた「共同墓(合祀墓)タイプ」、共有の納骨施設の中が個別のスペースに区切られていて、それぞれの名前を記した銘板や石碑を掲げる「集合墓タイプ」、一定の区画内に個別のカロートと墓石を設置した「個別墓タイプ」です。一部の民営霊園では、通常の形で建立したお墓を、故人の永代供養墓として使うことが出来るというシステムを取り入れているところもあります。

久喜聖地公苑 永代供養墓

久喜聖地公苑 永代供養墓

多くの永代供養墓では一定期間(10年間・33年間など)は骨壺で安置し、期間が過ぎたら遺骨を骨壺から出して合祀スペースへ移し、土に還すという方法が取り入れられています。使用者の希望で骨壺を安置する期間を決めることが出来る場合もあります。

川口元郷聖地 永代供養墓 こもれびエリア

川口元郷聖地 永代供養墓 こもれびエリア

永代供養墓の費用は、数万円から100万円を超えるものまで、かなりの幅があります。料金の定義やお墓の形態、納骨の仕方、供養の方法などはさまざまなので、よく確認しなければなりません。

 

 

(六月書房 霊園ガイド2013下半期号 より抜粋)

 

※こちらの記事もご参考まで→・永代供養墓 合葬墓 共同墓 合同墓 合祀墓 集合墓 納骨堂

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・陸前高田 奇跡の一本松

11月27日 水曜日 晴れ

陸前高田に来ました。 3.11の津波で壊滅的な被害の出た陸前高田。そして高田松原。 有名な奇跡の一本松です。

奇跡の一本松 DSC_0037奇跡の一本松 DSC_0546奇跡の一本松 DSC_0549奇跡の一本松 DSC_0542

唯一残った一本松を復元したもので、後ろにはユースホステルの跡地の建物が残されていました。

奇跡の一本松 DSC_0041

一本松の足元には献花台が設置されています。

奇跡の一本松 DSC_0044

拡大してみます。

奇跡の一本松 DSC_0045

一本松にたどり着く少し手前にも、このようなパネルが見られました。

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なんだか、ハイテクでハイカラな仕組みがあります。情報柱にスマホをかざすと、色々なことがスマホでわかるそうです。おおお~!すごいですよね!

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↑この杭です。

 

陸前高田は復興に向けての工事が大規模に進んでます。陸前高田 DSC_0040

↑この橋と、↓この構造物は山からの土を運ぶベルトコンベアを作っているのだそうです。規模が大きすぎてただただ驚くばかりです。

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↓山から土を運び、工事現場に。トラックで運ぶよりも山から直接ベルトコンベアで運ぶということで、想像以上に大量の土が必要なのでしょう。

陸前高田 DSC_0553陸前高田 DSC_0554陸前高田 DSC_0559

我々にできることは限られてはいますが、とにかくできるだけ早期の復興を祈念いたします。

 

 

 

 

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