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供養」カテゴリーアーカイブ

・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

2014年5月9日金曜日 晴れ

先日の長宗我部元親公のお墓参りに続きまして、元親の長子で戸次川の合戦で戦死した長宗我部信親のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました。

雪蹊寺は高知市長浜の、長宗我部元親公のお墓の比較的近くにあります。場所はこちら↓ 

雪蹊寺は四国八十八か所の33番目の札所です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0468- 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0469

県道に面した入口には「雪蹊寺(33番札所)」の文字とともに「長宗我部信親の墓」の文字のある看板↓もあります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0470 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0472

↑四国のへんろ道を世界文化遺産に・・・世界遺産を目指しております。「人生御遍路」です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0474-

延暦年間(782~806)に弘法大師(空海)が開基。ということなので、1200年以上前に建てられたお寺です。もとは高福寺と言いましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天像(国重文)が安置されたことから慶運寺と改称された経緯があります。その後戦国時代に長宗我部元親の法号にちなんで雪蹊寺と改称されました。儒教の南学の中心地とも言われています。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0473 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0475 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0476 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0478

歴史あるお寺だけあり、古い石塔がたくさん並んでいます。

実はここ雪蹊寺はすぐ隣に「秦神社(はたじんじゃ)」があります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0483

秦神社の御祭神は長宗我部元親。長宗我部家は秦の始皇帝の流れを組むという渡来の豪族、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔を名乗っていました。そのためここ秦神社には秦家累代の霊と、家臣忠死者も配神として祀られています。神社の拝殿の幕には、かたばみの紋が。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0479 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0481 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0484-

長宗我部家の家紋は「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。そのため、雪蹊寺、秦神社には↓の「丸に七つ酢漿草紋」の戦幟がいくつか配置されてました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0509

明治の世になり、廃仏毀釈の中、雪蹊寺が一時期廃寺となった際、雪蹊寺に収められていた衣冠束帯姿の長宗我部元親木像をご神体として秦神社が祀られました。なので、秦神社の建立は明治4年です。神社には木造のほか、国指定重要文化財である絹本著色長宗我部元親画像もありますが、現在は高知県立歴史民俗資料館(長宗我部氏の岡豊城跡)に委託保管されています。

秦神社への参拝後、すぐ隣の小高い山にある神社もあわせて参拝。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0486 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0485

長宗我部家臣が奇跡の神鏡を拾い命拾いしたために作られた西宮神社(えびす様)。石段を登った先に社殿があります。実はこの小高い山は、長浜城跡なのです。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0482

西宮神社はその小高い城跡の一部に祭られています。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0489

位置的には、秦神社のすぐ横、雪蹊寺の裏手にあたります。なので、雪蹊寺の見事な墓石がちらほら目に入ってきたりもします。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0490

それでは隣の雪蹊寺に戻ってみます。

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臨済宗のお寺様ということで、凛とした造りのお寺に感じられます。33番札所なので、お遍路さんもいらっしゃってます。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0492 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0493-

四国八十八か所のお寺は、弘法大師さまが開いた霊場なのですが、ここ雪蹊寺のように必ずしも真言宗のお寺ではないというところも多々あります。臨済宗の雪蹊寺にも↑のように大師像が置かれていたりします。また、柄杓が篤志の方から奉納されていたりと、なかなか興味深いものを感じました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0495 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0505

境内を歩いていると、「長宗我部信親公墓所」の案内を発見しました。↑実は右の写真、一番奥の木立の中に宝篋印塔の信親公墓所が見えているのですがわかりますでしょうか?

墓所の手前に案内板が。ここには信親公のお墓だけではなく、戸次川戦没者供養塔、香宗我部系の出で雪蹊寺中興の祖であり、関ケ原戦後の浦戸一揆の際に仲に立って開場に貢献したという月峰和尚のお墓もあります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0496

お寺の裏側に木漏れ日の中にお墓はありました。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0502 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0497

↑中央に信親公の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、左に戸次川戦没者供養の五輪塔が、右には月峰和尚の丸い無縫塔(むほうとう)があります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0499

お父上の元親公のお墓と比べて一回り小さいサイズではありますが、とても立派で保存状態のよい宝篋印塔です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0501

長宗我部家が関ヶ原で西軍につかず、大坂の陣で滅亡せず、江戸から明治まで残る大名になっていたならばもっと大きなお墓になっていたことでしょう。

↓戸次川戦戦没者供養塔です。こちらもとても美しいカタチの五輪塔です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0500

長宗我部信親は、長宗我部元親の長男として、将来を嘱望されていた武将です。

父元親は四国平定したものの、その後秀吉に屈服さぜるを得ませんでした。その後の九州征伐にて他の四国勢とともに島津氏と戦うこととなります。窮地に立っていた大友氏を助けるためという名目です。秀吉勢として父元親とともに出征した信親。秀吉の軍監仙石久秀の指揮のもと、戸次川の合戦にて秀吉勢は総崩れとなってしまったのですが、その際に多くの将兵が命を落としました。阿波の有力大名の十河存保(そごうまさやす)や、そして長宗我部信親と多くの供の者(700余名)も命を落としたのです。まだ22歳でした。

信親は身長184センチ、色白の長身だったようで、元親によって跡継ぎとして育てられてきたのですが、家臣の信望もとても厚かったようです。信親の「信」の一文字は織田信長からもらったのですが、その信長からも養子にほしいと言わせた程だったとか。そんな元親の後継者が他の若い多くの将兵とともに戦没したため、この後の長宗我部家は一気に衰えていってしまったとのことです。

戸次川の合戦についての記録は、雪蹊寺からも近い長宗我部元親初陣像の足元にもありますので、よしろければそちらもご覧ください。

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・長宗我部元親公のお墓をお参りしてきました。

2014年5月7日

ゴールデンウィーク中に、四国の戦国大名の長宗我部元親、信親親子のお墓をそれぞれお参りしてきました。

まずは長宗我部元親公のお墓を訪ねてみます。場所はこちら↓ 

↑高知市長浜にあるのですが、小高い山の南面にお墓はありました。地図内の桂浜には先日記事にしました坂本龍馬像があり、鎮守の森公園緑地と書いてある近くにはこちらも先日記事にしました長宗我部元親像があります。おなじく近くにある雪蹊寺には元親の息子信親のお墓があります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0466

高知県道34号桂浜はりまや線を南に桂浜方面に進んでいくと看板が見えてきます。県道34号は二筋になっていますが、桂浜に近い方の道です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0465

突き当りまでくると、ここから先は徒歩でしか進めなくなります。様々な案内板が出迎えてくれます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0447

長宗我部元親は土佐を統一し、四国全土を制圧した戦国武将、大名です。秀吉の軍門に降り領土も四国全土から土佐一国に減封されましたが、京都伏見での病没後、後事を託した盛親の代にて関ヶ原の合戦、大阪の陣によって長宗我部氏は歴史上から消えてしまいました。お墓は宝篋印塔のカタチをとっているようです。

長宗我部元親公のお墓DSC_0446 長宗我部元親公のお墓DSC_0448 長宗我部元親公のお墓DSC_0449

この奥の石段の上にあるようです。

長宗我部元親公のお墓DSC_0463

新緑のこもれびが気持ちの良い細道が続いていますので、奥に進んでみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0451 長宗我部元親公のお墓DSC_0453

石段になる手前に、たくさんの石塔や祠が集められている場所がありました。「兵士の塚」とあります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0452

関ヶ原戦で西軍となった長宗我部家の家臣が1600年12月に起こした浦戸一揆。その戦死した兵士を祀っているもののようです。

さて、では石段を登って先に進んで行ってみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0454 長宗我部元親公のお墓DSC_0455

石段はあまり長くはなく、すぐに墓所に到着できました。

重厚な灯籠と柵に囲まれた宝篋印塔の墓所です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0461 長宗我部元親公のお墓DSC_0456

おそらく明治まで続く大名家となっていたならばこんなに気軽にはお墓参りは出来なかったことでしょう。規模ももっとずっと大きくなっていたのではないでしょうか。

それにしても、やはり立派な宝篋印塔です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0458 長宗我部元親公のお墓DSC_0459

宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、元来は「宝篋印経」という経典をいれる仏塔のことを指していましたが、その形状のみの進化が進み、身分や位の高い方、篤信の方の供養塔として現在でも使われている形状の供養塔になります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0460

1599年没の長宗我部元親、もうあと少し生きていたならば、関ヶ原にてどういう活躍になってその後の長宗我部氏や土佐国がどうなっていたのだろう・・・と考えてしまいます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0462

元親公ゆかりの方が整備されているようですね。ご先祖様を供養する、それが戦国大名のご先祖様でなくともどちらの家でも共通した思いはあることと思います。お参りさせてもらう側として、整備いただいていることはとてもありがたいことですし、何より眠られている元親公の魂もやすまることと感謝いたします。

長宗我部元親公の長男、信親公のお墓はここの近くの雪蹊寺にあるのですが、そちらもお参りしてきましたので別の記事にてご紹介いたします。

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・正しいお墓の買い方 [その7] 墓石の大きさ 墓石に刻む文字

正しいお墓の買い方 [その7]

(前回 正しいお墓の買い方 [その6]

10.墓石の大きさ。

大きいお墓が良い、小さいお墓は悪いというものでは全くありません。大切のは、死者への供養の心を込めて作られたか否かです。例え小さくとも、心のこもったお墓であれば、気に入った石種で、ご予算に応じてお作りになられてら良いと思います。

 

11.墓石に刻む文字。

墓石に文字を刻むようになったのは、平安時代の終わり頃のようです。当初は経文や梵字を彫りましたが、室町時代に入って仏の種子、仏像、名号、題目などが彫られるようになり、仏塔としての性格が顕著になりました。江戸時代にはいって、庶民が建立するようになった三段型の墓石は、当初、仏塔として亡くなられた方のために一人一基ずつ建立され、棹石の正面頭部に宗派によって仏を表す「円」大日如来を表す梵字の「石塔の梵字-ア-大日如来(ア)」「妙法」などを入れ、その下に「南無阿弥陀仏」「妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」などの題目を彫り、側面に仏弟子となった故人の戒名、法名を記しました。

明治時代に入ると仏を表す円や名号、題目が欠落し、家紋や個人俗名が刻まれ、仏教的な意義付けが、次第に薄れました。大正から昭和にかけて民法に家制度が導入されると、仏塔として個人墓だった墓石は家墓、先祖代々墓となり、仏弟子の証として刻まれた戒名も墓誌(法名碑)に記されるようになり、仏塔としての墓石は完全に形骸化し、墓石に刻む文字への制約もなくなりました。

そして、家制度が崩壊し核家族化、少子化が進んでいる今日、お墓も家族墓、夫婦墓、両家墓、個人墓、永代供養墓など、急速に多様化し、それに伴って墓石に刻まれる文字も思い思いに好きな文字や言葉が刻まれるようになりました。

 

(全優石「正しいお墓の買い方」より抜粋)

正しいお墓の買い方 [その8]へ

・やなせたかし先生のお墓「朴ノ木公園(ほうのきこうえん)」に行ってきました

2014年5月2日金曜日 晴れ

一昨日のことになりますが、高知県香美市にあります「朴ノ木公園」に行ってきました。場所は香美市にあるアンパンマンミュージアム(香美市立やなせたかし記念館)から車で約5分くらい。

グーグルマップではこちらが現地になります。https://goo.gl/maps/gt8Th

やなせたかし先生の実家跡がお墓の公園になると昨年10月このブログでも記事にも書いたのですが、今年2014年4月20日に公開となったとニュースで見てから、尋ねてみたい場所として自分の中で一位になっていた公園です。

ミュージアムのサイトでは「GWはアンパンマンミュージアムからのシャトルバスをご利用ください。(公園専用の駐車場はありません。)」とありましたが、一昨日4/30は平日ということもあり公園近くに駐車することができました。香美市観光協会さんのスタッフブログに、詳しいアクセスについて書かれてました。訪れる人にとってはとてもありがたいブログです!明日からのゴールデンウィーク後半や祝祭日にご訪問される方はアクセスや駐車場に気を付けてください。

さて朴ノ木公園の近くにある高照寺さま。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0120+のコピー

岩室山高照寺平成の大修理で志納された方々のお名前が並んでます。中央の「南無大師遍照金剛」の文字のすぐ右側に「柳瀬嵩」の文字が!柳瀬家の菩提寺だそうです。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園地図DSC_0121+

ホオちゃんが案内してくれてます。朴の木は「ほうのき」と読みます。そしてここは朴の木地区。柳瀬家の菩提寺の高照寺さまと氏神様の厳島神社の間に朴の木公園はあります。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0122 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0123

案内板がありましたので、まよわずに公園にたどりつくことができるのですが、傾斜のあるこの地区に立つそれぞれの家、建物はどちらもとてもきれいな石垣と練塀と複層の屋根を持つ蔵とを見ることができ、穏やかで豊かな土地なんだなぁと感じられます。前夜に降った大雨のせいか、幾筋もながれている水流も水の勢いが強めで、せせらぎの音がずっと聞こえてきています。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0124

↑せせらぎを耳に段々畑を進むと白く丸いものが見えてきました。どうやら公園の北側、裏側が見えているようです。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0125 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0163

↑朴の木公園にたどり着きました。入口には北を向いたお地蔵様と、そして役所の職員の方がいらっしゃいました。簡易ですがトイレもあります。

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やなせたかし先生のお父様のご実家跡地ということですが、巨大な公園ではなく、きれいな植栽とおなじみのキャラクターたちがいる親しみやすい公園です。遠くから見えていた白く丸いものは、そうです!みんなのアンパンマンでした。

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この公園のメインはやはり、やなせたかし先生のお墓です。さっそくお参りしましょう。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0136 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0137 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0138

柳瀬家はここにあった 300年以上続いた旧家だが 今は影もかたちもない 一族の墓石は 後方の 山の中腹にある ぼくはここでねむりたい 故郷の土はあたたかい 木蓮科のマグノリア 一本の朴の木にぼくはなりたい 季節にははにかみがちに 白い花を咲かせて 風の中でゆれていたい

やなせたかし

(以上、石碑より引用)

 

石塔の裏側には

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やなせ先生は奥様とお二人で眠られているんですね。

それにしても、とても大きな墓石です。洋型墓のカタチをとっています。そして両脇には大きなアンパンマンとバイキンマン。

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アンパンマンとバイキンマンは斜め方向を向いています。職員の方に聞いてみたところ、どうやらやなせたかし記念館、アンパンマンミュージアムの方向を向いているようです。

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アンパンマンとバイキンマンには、丸い踏み石が続いているのですが、よく見てみると・・・

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踏み石の中にアンパンマンとバイキンマンとドキンちゃんがいました!(画像だと少しわかりにくいですね(^_^;))

墓石と向き合うように、ふたつの石碑が配置されていました。

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ホオノキ やなせたかし

ヒノキは高級な木 ホオノキは低級な木 朴歯の下駄とか マナイタになる でもホオノキのマナイタは 自分が傷ついても 決して包丁の刃をいためない トントントン 音がうれしそう ホオノキはモクレン科 ひかえめな木 ぼくは下駄の歯と マナイタでいい 低級な木のホオノキでいい 生まれたところも香美郡在所村 朴ノ木(ホオノキ)だしね

(以上、石碑より引用)

やなせ先生の詩集があったらぜひ手に入れたいと思います。

もう一方の石碑には

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 アンパンマンのマーチ 歌詞20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0131 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0130 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0132 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0162

アンパンマンのマーチの歌詞が刻まれています。歌詞がかかれているので、石碑の裏側にはJASRACの番号も刻まれています。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0149 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0150 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0151 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0152 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0153 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0154 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0155 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0156

公園内には、おなじみのショクパンマンやカレーパンマン、メロンパンナちゃんとジャムおじさんもいました。(ばたこさんと、めいけんチーズは?)

遠くからもわかるように、公園の名前の書かれた横断幕があります。目印になりますね!

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0161

しかし、なんとよい土地なのでしょう。なんだか離れるのが名残惜しい気持ちになる、風光明媚な場所です。新緑の季節で日差しもあたたかく、とても気持ちよくお墓参りできました。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0160

それにしても段々畑の石垣が幾重にも重なって見えて、とっても綺麗です。さてそろそろ公園を後にしてみます。来た時とは別の道で離れてみます。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0164 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0173

こちらの道から来るときは、↑複層の屋根の付いたこちらの蔵と、↑遠くからも見える横断幕が目印ですね!

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0172 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0165

↑すぐの場所にある氏神様の厳島神社。むこうに公園の横断幕が見えています。ちょっと寄り道してこちらもお参りしてきました。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0166 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0167 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0169 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0170 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0171

繊細かつダイナミックな石彫刻の灯篭です。すばらしい。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0168

規模は決して大きいとは言えない厳島神社でしたが、歴史を感じられる境内と拝殿、そして周りを巡る小川のせせらぎがここちよく癒してくれる、とても暖かな気持ちになる神社でした。きっとやなせ先生も毎日この前をあるいたのでしょうね。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0174

とても気に入ってしまった朴の木地区と、やなせたかし朴の木公園。またいつか尋ねてみたいものです。

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おまけ やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0111 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0114 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0175 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0116

高知県の子供たちにはおなじみのアンパンマンミュージアム。全国からもたくさんの方が訪れています。ゴールデンウィーク中ではありますが平日と言うこともあってすいていました。↑右下の写真、鯉のぼりとともに高知のみで見られる「ふらふ」という大きな旗、大漁旗に似た旗がたなびいています。鯉のぼりと一緒に子供の成長を願う旗です。フラッグが転訛して「ふらふ」と呼ばれているとか。

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↑元気ひゃくばいになりそうです。思わず「あーんぱーんち!」と口に出てしまいそう。

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↑この四角い建物がやなせたかし記念館、アンパンマンミュージアムです。

バイキンロボットがこちらをみてます!

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このロボット、実はかなり大きいのです。

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バイキンロボットの横の道には、キャラクターたちが並んで展示されています。

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石造りのアンパンマンたちもたくさんいます。

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黒い蝶々も飛ぶ、おだやかな日です。

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あんぱんちは、車でくる人をお出迎えしてくれているようですね!

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近隣の案内図です。

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なぜかダムのタービンも展示されています。

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水力発電の水車なんですね。でもここにあることでたくさんの方の目に触れることができているのは、とっても貴重なことだと思いました。

 

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・正しいお墓の買い方 [その6] 9.墓石の形

正しいお墓の買い方 [その6]

(前回 正しいお墓の買い方 [その5]

9.墓石の形。

現在建立されている墓石は、大きく分けると三段型の和型とオルガン型の洋型に分類されます。三段型の墓石は、江戸時代中期頃より一般庶民が建てるようになったお墓の形です。その原型は五輪塔とも言われていますし、位牌を形どったものとも言われています。当初は仏塔として人が亡くなると、一人一基ずつ建立されましたが、家制度の導入と共に家墓、代々墓となり、仏塔としてのお墓は形骸化し、その形だけが今日まで継承されています。洋型墓石は仏塔としてのお墓が完全に形骸化した昭和40年初頭に出現し、あっという間に全国に普及しました。そして、今日では、家制度が崩壊し核家族化、少子化が進みお墓も家族墓、夫婦墓、両家墓、個人墓、永代供養墓など、急速に多様化し、墓石の形も人によって、あるいは求めるお墓によって様々になりました。特に近年、自分好みの自分らしいお墓作りをされる方が急増し、洋型墓石はデザインを競う時代に入り、素敵なお墓がたくさん目につくようになってきました。

このほか、一般的な墓石として五輪塔があります。平安時代中期頃できた仏の姿を表し、森羅万象をかたどった伝統的な供養塔です。お釈迦様の遺骨が納められた塔を原形として、古来インドの地・水・火・風・空の五大(要素)思想に基づいて作られたもので、報恩供養を願って建立される代表的な供養塔です。

こういう形はいけないとか、宗教を無視した新型墓石はいけない、などと言われる先生がおられるようですが、お墓の原点はネアンデルタール人が花を手向けたその心です。形ではありません。従ってどういう形の墓石で建てられるかは、作られる方の自由です。それにお釈迦様はお墓のことは何も話されていません。それは人の心が決めることと悟られていたからに違いありません。それにもし宗旨、宗派に即して建てなければならないなら、三段型墓石が誕生した江戸時代にさかのぼって、当初意義づけられた仏塔として一人一基ずつ建てなければなりません。そんなことをしたら、日本中お墓だらけになってしまうのではないでしょうか。

 (全優石「正しいお墓の買い方」より抜粋)

霊園や墓所によってはお墓の形など規制されているところがあります。より詳しくは、お気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が丁寧にご対応させていただきます。

正しいお墓の買い方 [その7]

・埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の芝桜が満開です!

2014年4月23日水曜日 晴れ

ただいま埼玉県鴻巣市箕田にあります鴻巣霊園の芝桜が満開です!

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の芝桜が満開DSC_0125 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の芝桜が満開DSC_0123 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の芝桜が満開DSC_0124 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の芝桜が満開DSC_0128

毎年この季節になりますと、鴻巣霊園の墓域にありますヴェルデ区画にあります芝桜がとても綺麗に咲いてくれます。今年も咲いてくれてありがとう!

春ということもあり、芝桜のほかにも様々な植栽にも綺麗な彩りを見ることが出来ます。

園内のシャクナゲ↓も見事に咲いていました。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のシャクナゲDSC_0132 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のシャクナゲDSC_0133

↓こちらは霊園入口のシャクナゲ。埼玉県道76号鴻巣川島線からよみ見える場所にあります。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のシャクナゲDSC_0141 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のシャクナゲDSC_0142 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の入口DSC_0139

↓園内のユキヤナギも綺麗に咲いていました。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のユキヤナギDSC_0135 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のユキヤナギDSC_0136

管理事務所の周りにある花壇↓には、季節の花がたくさん植えられていて、かわいらしくも華やいだ雰囲気を演出してくれています。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の花壇DSC_0120 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の花壇DSC_0119 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の花壇DSC_0118 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の花壇DSC_0147

そんなたくさんの花と植栽に彩られた鴻巣霊園、墓域は植物に囲まれていてとても安らぐことができる設計になっています。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域と夫婦墓DSC_0110 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域DSC_0100 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域DSC_0112 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域DSC_0122 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域DSC_0130 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の墓域DSC_0134

↓こちらは永代供養墓と、夫婦墓です。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の永代供養墓DSC_0113 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の永代供養墓と夫婦墓、墓域DSC_0107 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の永代供養墓と夫婦墓DSC_0117

園内の環境もさることながら、最寄りの北鴻巣駅周辺の国道17号や熊谷バイパスからのアクセスの良さもあり人気の霊園です。

埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園のの管理事務所DSC_0103 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の管理事務所DSC_0121 埼玉県鴻巣市 鴻巣霊園の管理事務所DSC_0149

経営母体は吹上本町の勝龍寺様。(桜の季節にはすぐ近くの元荒川で花見をすることもできるお寺です→その時の記事

また鴻巣霊園からほど近い吉見総合運動公園では、四季折々の植物も楽しめます。(その時の記事→スイセンチューリップ菜の花)

様々なお花と植物を味わうことが出来る候環境の鴻巣霊園。墓地についてご興味ありましたらこちらも是非ご覧ください→ 鴻巣霊園の墓地紹介ページ

※永代供養墓特集のページを見てみる

すぐに永代供養墓の資料を請求したい方はこちら→永代供養墓の資料を請求してみる

 

より詳しくは、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ、お越しの際はこちら → お墓無料相談窓口

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

※この記事は、平成26年4月現在の写真と情報になります。区画には限りがありますので、ご希望の区画をご案内できない場合はご容赦ください。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・株式会社大塚は全優石に加盟しています

2014年4月11日金曜日 晴れ

弊社、株式会社大塚は全優石に加盟しています。

大塚は埼玉、東京、神奈川、千葉、群馬、静岡で墓所のご案内をしておりますが、本社は埼玉県上尾市にあります。

本社の受付にはこのようなポスターが↓

平成26年 全優石ポスター 吉村作治さんDSC_0022 平成26年 全優石ポスター 吉村作治さんDSC_0023

全優石のお店は、全国組織の全優石が認定した、第一級のお店です。

全国の優良石材店約300社で構成され、昭和58年に設立。現在、一般社団法人として設立登記されたお墓の専門家グループです。全優石のお店は、2年に一度の認定審査で、全優石が第一級と認定したお店です。

全優石のお墓は、ダブル保証しています。

全優石のお墓には、「保証書」(ただし一部除外品あり)が付いています。全優石と認定店がダブルで保証する、業界唯一の安心保障です。

全優石のお店には、認定相談員がいます。

全優石認定の「お墓相談員」が、お客様のお墓に関する質問、ご相談をお受けします。どんなことでも安心してお尋ねください。

お墓の引っ越しなら、全優石の全国ネットワークシステム。

全優石ならではの全国ネットワークを活用すれば、お墓の引っ越し(改葬)も費用が軽減でき、しかも容易にできます。

全優石建墓ローンもご利用いただけます。

急にお墓を建てることになった場合のご予算も、低利率の全優石建墓ローンがお力になります。

全優石の「お墓なんでも相談」(無料)

お墓というと、普段なじみがないことから、誰に相談すればよいか迷うことがあります。全優石では、フリーダイヤルで、お墓に関するご相談を専門相談員が丁寧に無料でお答えします。お気軽にご相談ください。お墓何でも相談フリーダイヤル 0120(141)996

墓地や認定店をお探しの方へ

インターネットで「全優石」と検索していただければ、全国の空き墓地やお近くの認定店が確認できます。

 

また、↓こういったポスターも貼ってあります。エジプト考古学者の吉村作治先生に登場いただいています。

平成26年 全優石ポスター 吉村作治さんDSC_0024 平成26年 全優石ポスター 吉村作治さんDSC_0025

お墓のことで疑問やご質問、お困りのことなどありましたら、全優石加盟の弊社大塚にお気軽にご相談ください。お墓相談員(全優石)やお墓ディレクター有資格者(石産協)など専門の知識のある者が丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ、お越しの際はこちら → お墓無料相談窓口

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

 

 

・20140409 埼玉県北本市 石戸蒲桜(いしどかばざくら)

2014年4月9日水曜日 晴れ時々曇り

以前(3/29)桜を確認しに行きました、埼玉県北本市の石戸蒲桜。以前はパンパンの蕾でまだ咲いていませんでしたが、本日寄ってみましたら、桜咲いていました!というよりも、散りかけていました(^_^;)

20140409 埼玉県北本市 石戸蒲桜(いしどかばざくら)DSC_0020

地面は一面のピンクの絨毯。枝にはちらほらと若葉の芽が伸び始めていました。

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地面がとっても綺麗です。

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確か、先日訪れたとき(3/29)は、ソメイヨシノが見ごろになろうかとしていましたが、蒲桜はまだまだ一輪も咲いていませんでした。が、どうやら散る時期は境内にあるソメイヨシノも蒲桜も同じくらいの時期になったようですね。数日前なら桜のピークをソメイヨシノも蒲桜も両方楽しめたのかもしれません。

でも、一面のピンクのジュウタンを見ることが出来ましたし、葉桜もまたとても綺麗でしたので、たいへん満足できました(^-^)

 

 

 

・群馬県館林市 館林城と出土墓石群

2014年4月9日水曜日 晴れ

館林城跡に行ってきました。あまり時間がなかったので、今回はその中でも弊社大塚の仕事と関連のある「墓石」について、「館林城出土墓石群」を見に行ってみました。

群馬県館林市 館林城 市役所 周辺マップ DSC_0060

市役所は館林城跡に建てられています。さすが城址の周辺は公園や学校、その他公的な建物がいっぱいです。そんななか、貴重な文化財や遺構も残されています。

群馬県館林市 館林城 市役所前の土塁?DSC_0058 群馬県館林市 館林城 市役所前の土塁?DSC_0059

元々は土塁だったんであろうなぁ~という場所がちらほら目に入ってきます。

丁度、「こいのぼりの里まつり」でたくさんの鯉のぼりを見ることが出来ました(昨日の記事)。桜が散りかけていたのが残念です。

群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0109 群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0147 群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0148

芝生に白く点在しているのは散った桜のはなびらです。↑上の写真の丸いドームは「向井千秋記念こども科学館」です。本丸跡に建てられています。児童教育は「館林市の本丸!」なんですね。ちなみにこの桜の生えている場所、少し小高く見えませんか?少し左側に回って進んで行ってみると・・・

群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0153 群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0149 群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0150群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0152 群馬県館林市 館林城 本丸土塁跡 DSC_0154

桜の咲いていた土手は館林城本丸の土塁跡です。石垣のように見えるのは、土塁が崩れるのを守っているコンクリートの擁壁です。この本丸跡地のどこかに、天守たる御三階櫓が建っていたわけです。写真をとりました広い芝生の広場は、二の丸跡と八幡曲輪(御厩曲輪?)のあった場所。とても気持ちの良い広場です。ちなみに市役所は二の丸と三の丸にまたがる位置に立っており、文化会館が三の丸にあたります。ここを過ぎて行きますと・・・

群馬県館林市 旧秋元別邸DSC_0119

旧秋元別邸があります。つつじ会館ともいうのでしょうか?

群馬県館林市 旧秋元別邸DSC_0121 群馬県館林市 旧秋元別邸DSC_0122 群馬県館林市 旧秋元別邸DSC_0123 群馬県館林市 旧秋元別邸DSC_0124

この近くに館林城出土墓石群があるはず!

群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0118 群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0117

表示板を発見しました。なんだか、オリエンテーリングをしているような気分です・・・。

そしてやっとたどり着きました。場所は旧秋元別邸のすぐ近く、本丸と八幡曲輪の間あたりにありました。

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木立の中にひっそりと供養されています。たくさんの五輪塔が並んでいるのが一目でわかりました。

群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0130

館林市重要文化財

館林城出土墓石群

指定年月日 平成9年2月24日指定

所在地 館林市尾曳町乙4番地の1

時代 中世

これらの墓石群は、館林城本丸や三の丸土塁から別々に出土した五輪塔や宝篋印塔などの墓石を組み合わせ、昭和48年(1973)に墓域として整備したものです。

特に五輪塔は、その形から中世につくられたものと考えられています。

これらの墓石は、近世の館林城の土塁や石垣を修築するにあたって、石材として集められ利用されたと考えられています。

墓石の中には、中世の館林・邑楽地域の領主であった佐貫一族と思われる「沙弥道慶(しゃみどうけい)」の名や、中世の年号が読めたものがあったと言われていますが、風化が激しいため現在では判読ができません。

中世の館林市域の石造物について考えるうえで欠かせない文化財です。

館林市教育委員会

↑以上、案内板より引用。

群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0127 群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0129

それにしても、中世ですので少なくとも800年から500年以上前の非常に貴重な石塔ということになります。館林城の石材に使われたということですが、他の城でも墓石やお地蔵様などを石垣に使用しているケースもままあります。館林城は、江戸期の前半に一度廃城となり、その後に藩として復活し城も再度整備されたという稀な歴史をたどっています。そもそも戦国時代の関東には石垣をもつ城はほとんどありませんでしたので、江戸時代の初期もしくは再整備された際に石材として墓石が使われたのでしょう。しかし逆に言えば、そうして使用されたがためにこのように保存されていたともいえるのかもしれません。

群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0132 群馬県館林市 館林城跡 館林城出土墓石群DSC_0134

同サイズの五輪塔がたくさん並べられております。ここ自体が「墓所」、供養所として整備されたようですね。(五輪塔とは

五輪塔のカタチを元に塔婆(卒塔婆)のカタチは作られたというのがよくわかる形状の五輪塔です。

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武家の城となってしまっていましたが、今は安らかにこちらで供養されています。それぞれの故人の方々も安心して眠っているのではないでしょうか?

館林城跡には、まだまだ多くの文化財や見所がありますので、また時間ができましたら訪問してみたいと思いました。

※群馬県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手・石戸城址隣接)の満開の桜

先日記事にしました「20140329 桜の様子 北本市石戸蒲桜 江戸彼岸桜 桜堤 北里メディカル桜並木」の四日後、北本市の桜堤(桜土手)を通過する機会がありました。

3/29の段階では一分咲きくらいだった桜土手の桜。見事満開になっていました!

20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0553

3/29の様子はこんな感じでした↓

20140329 桜の様子 北本市 桜堤 DSCN4071 20140329 桜の様子 北本市 桜堤 DSCN4062

記事にするまでに時間が経ってしまいましたので、今はもう散り際になってしまっているかもしれませんが、再度訪ねてみて正解でした。

20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0545 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0547 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0548 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0551 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0554 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0556

平日でしたが、お花見客や屋台でにぎわっています。

こちら↓は隣接の天神下公園。左の森は、石戸城跡で、右側に荒川が流れています。天神下公園の桜も見事です。

20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜 天神下公園DSC_0546

菜の花も咲き誇ってきていて、ピンクと黄色で彩られた土手は何とも言えない春のお花見の雰囲気をとっても柔らかくしてくれています。

20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜 菜の花DSC_0560 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜 菜の花DSC_0563 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜 菜の花DSC_0562 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜 菜の花DSC_0561 20140402 埼玉県北本市 桜堤(桜土手)の満開の桜DSC_0557

例年めの保養にさせてもらっている桜土手。また来年も綺麗に咲いてくださいね!

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※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

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