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寺院・神社」カテゴリーアーカイブ

・20140811 台風一過のレンズ雲 埼玉県北足立郡伊奈町

2014年8月11日 月曜日 晴れ

こんにちは。墓地と霊園をご案内し、墓石の製造加工と据付施工をしている石材店の株式会社大塚です。

さきほど午前中、台風一過の青空にレンズ雲を見つけました。

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0125

あまり巨大な感じはしませんが、アップにしてみてみると・・・

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0126

とても巨大に感じられます。

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0128

なんだか、UFOみたいですね~

ところで、撮影したこの場所、

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0125

左を見てみますと

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0122

埼玉県伊奈町、大塚がいつもお世話になっております法光寺さまが見えます。

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0129

とってものどかな風の気持ち良い日です。

 

実は、法光寺さまの入り口に新しくできました看板を見に来たのですが、そうしたら偶然レンズ雲をみつけたというわけです。

20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0126 20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0127 20140811 台風一過のレンズ雲DSC_0127-

↑こちらが法光寺さま入口の看板です。看板の真上にレンズ雲が見えました。

新しくできたこの道。2014年3月の完成により、県道311号に振り替えられました。レンズ雲は伊奈町栄の方向に見えます。もっと向こうにあるのかな?だとすると蓮田、岩槻方向になります。

レンズ雲は山の上などに見られる雲ですが、山のない平地でも見ることができます。山を通過した際に生まれる風の波うちが、目に見えなくとも遠くまで続いていることがあり、その結果何もない平野部でもレンズ雲を見ることができる・・・とウィキペディアには書かれていますが、この辺りは山などもないので本当に不思議な感じです。

 

↓こちらもご参考まで。

大塚サイト内での、法光寺さま墓所御紹介ページ

 

お墓、墓石については、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が石匠位認定店(全石協)として丁寧にご対応させていただきます。

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※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・埼玉県桶川市 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡(桶川飛行学校)に行ってきました②

2014年8月9日土曜日

こんにちは。東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬、静岡にて墓地と霊園をご紹介し、墓石の製造加工と墓地施工をしております石材店の株式会社大塚のブログです。

本日は、69回目の長崎原爆忌です。先日広島原爆忌の9日に記事にしました「埼玉県桶川市 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡(桶川飛行学校)に行ってきました①」の続きになります。原子爆弾投下とは直接の関係はありませんが、先の大戦での悲劇を振り返り、亡くなられた多くの方に手をあわせるということは、供養産業の中にいる石材店の大塚としてもとても大切なことと考えています。

 

さて、前回は埼玉県桶川市にあります、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡(桶川飛行学校)に行ってきました際の、建物など外回りの写真と様子をご紹介いたしました。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0067 本部兵舎 宿舎 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0140 本部兵舎 宿舎入口

資料などたくさん展示されている、兵舎内部の様子を今日はご紹介してみます。

上記右側の写真に写っています、兵舎入口から「案内」がスタートします。「案内」というのは、ボランティアにて旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会の方々がこの施設と掲示物、背景と歴史とこの飛行学校での訓練生のみなさんの日常の様子や数多の手記、遺書、写真を紹介、説明してくれるのです。

この「案内」というボランティアの方のお話が宝の山でした。行ったときに案内しれくれたのは、終戦時に小学生であったというAさん。訓練機による飛行訓練の様子などを眺めていたという方。もちろん地元の方です。

そしてAさんより「これを見ればここがどういったところか、歴史や趣旨がよくわかると思いますので、お時間が大丈夫ならまず見てみてください」と映像を見せてもらうことになりました。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0068 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0069

当時を知る方々の貴重なお話や写真がとてもわかりやすくまとめられています。 この映像はDVDとしても販売されているようですが、たまたまこの日は品切れだったようで、後日あらためて求めに行こうと思います。(人気みたいですね)

この映像を見せていただいた部屋、実は訓練生の宿舎だった部屋になります。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0100

傍らには様々なものがさりげなく配置されているのですが、「さりげない」ながらもどれも実は大変貴重なものばかり。

↓こちらの二点は

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0080 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0168 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0171

エンジンの付け根部分と、尾翼の付け根部分なのです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0167車輪

そして車輪。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0170 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0169

練習機とはいえ、立派な軍用機です。多くの残っていた機体は進駐軍によって破壊処分されたそうですが、奇跡的に残されていたようです。

↓こちらは陸上攻撃機の先端部分。近在の農家の方が拾われ、先端をつぶして鍋にしようとしたところ、うまく鍋にできなかったため納屋にしまっていたという一品です。納屋に置かれていたため今日まで保存されていたというわけです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0175

↓こちらは当時の寝台を再現したものだそうです。当然ですが、ベッドだったんですね。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0087 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0088

↓千人針とラッパです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0083 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0085

↓軍用行李と、飛行学生の備品を置く棚です。軍ですので、置き方にも細かな決まりがあったようです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0086軍用行李 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0082

↓こちらは鉄兜(ヘルメット)と陶器製の地雷など。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0093鉄兜 陶器製手榴弾 陶器製地雷 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0173鉄兜

↓ちいさなものが陶器製の手榴弾。大きなものが陶器製の地雷です。陶器製というところに当時の日本の物資状況をうかがうことができます。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0174陶器製手榴弾 陶器製地雷

↓左のものが軍用電話。右の実弾はサイズを測り忘れてきてしまいましたが、かなりの大きさの機関砲の実弾でしょうか。ずっしりととても重かったです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0094鉄兜 陶器製手榴弾 陶器製地雷 軍用電話 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0095機関砲の実弾?大きい

 

「飛行学校」の直接関係のあるものでなくとも、貴重な戦争関連のものの保存目的であつめられているとのこと。「お祖父さんの手記などありましたら、どんなものでもよいのでコピーをもらえませんか」と依頼されましたので、今度実家で探してみようと思いました。

それでは掲示されているものを見ていってみましょう。

95式1型乙練習機。川田谷桶川飛行場でこの飛行機で日々訓練されたそうです。通称「赤トンボ」だそうです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0090

↓まっすぐな川が荒川。右の曲がりくねった川が旧荒川。旧荒川の近くにあるのが格納庫。格納庫は、現在のホンダ航空の建物の近くですね。画像の飛行機の左下にある森が桶川市の泉福寺さま(弊社大塚がいつもおせわになっています)

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0091

ここから特攻に立たれた方々のたどったルートだそうです。昭和20年4月5日にこの地をはなれ、鹿児島の知覧から4/16と4/22に出撃されたそうです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0092

戦争遺跡保存についての署名のお願い。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0103

平成21年3月12日、14,334名の方が署名されたそうです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0104

そして、国有地が桶川市有地になったそうです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0138

この宿舎内の棚についての説明がありました。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0105 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0106

宿舎の様子だそうです。ずらりと寝台が並んでいたのですね。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0107

終戦時の陸軍飛行場。こんなにたくさんあったのにもかかわらず、兵舎が現存しているのはここのみ。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0108

戦闘機や攻撃機、爆撃機の模型も時々展示されています。寄贈されたものだそうです。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0110 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0096 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0118

兵舎内は、いくつもの部屋に分かれており様々な読み物などが掲示されています。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0111 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0112 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0114 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0115 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0117 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0139

荒鷲の碑があり、千羽鶴なども手向けられています。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0157

↑当時の写真もたくさん見ることができます。↑練習機の向こう側に見えている森は桶川市の泉福寺さまの森になります。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0158 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0160 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0161 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0163 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0162 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0164

特別攻撃隊第79振武隊と、第23振武隊。99式高等練習機で出撃されたそうです。

特攻に出られた五井中佐のお墓は桶川市の浄念寺さまにあるそうです。(こちらも大塚がいつもお世話になっているお寺様です)

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0165 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0166

近隣の航空写真です。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0098

↓こちらが古い航空写真。上記写真と向きが逆です。練習機の飛行コースが矢印で示されてます。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0099

兵舎の入口や廊下にも掲示物があります。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0135 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0137

そして、旧陸軍桶川飛行学校についての説明板です。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0136

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は昭和12年6月に開校しました。中央に営庭を配置し、守衛所、事務所、食堂、風呂棟、宿舎、下士官棟、車庫、講堂など10棟以上の建物で構成されていました。滑走路は現在のホンダ航空の滑走路とほぼ同じ位置にあり、川島町側堤防脇に格納庫と現地事務所がありました。

他の兵科から航空兵を志願してきた召集下士官、少年飛行兵、特別操縦見習士官など、推定1500から1600名の航空兵の操縦基礎教育を行いましたが、昭和20年2月以降は特攻隊訓練基地として使用され、同年4月5日、陸軍初の練習機による特攻と言われる第79振武特別攻撃隊12名が九州知覧基地に向け出発しています。

戦後、建物の内部を改造し大陸からの引揚者などの住宅として使用されましたが、現在守衛所、宿舎、下士官棟、車庫、便所が残っています。

平成20年10月   旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

以上、引用させていただきました。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0121

廊下は当時の空気がそのままに残されているように感じられます。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0119 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0102

廊下の向こうから、航空力学を、操縦訓練を学んだ若者が走ってきそうな気がしてしまいます。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0134 20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0101

昭和12年6月に開設された分教場です。終戦が20年ですので、8年間しか学校としては機能できませんでした。ということは、当時は真新しい学校であったのでしょう。現在は焦げ茶色に時間の経過を刻んでいます。

20140726 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 桶川飛行学校DSC_0075

今年は終戦69年目です。当時はこの兵舎のガラス窓からはどのような景色が見えたのでしょうか。

最後に、案内係のAさんが何度も言われたのですが、旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会は悲劇を繰り返さないよう平和を願う会だということ。決して戦争賛美が趣旨ではないと言われました。

平和を願い、当時何があったのかを知る施設として、とても大切な戦時遺跡です。これからも大切に残されていくことと、戦時に亡くなられたみなさんを偲び、供養の心をもってこの夏も過ごそうと思います。

 

埼玉県桶川市 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡(桶川飛行学校)に行ってきました① も合わせてご覧ください。

 

 

・埼玉県上尾市 遍照院のご紹介

2014年8月8日金曜日 曇り時々雨

こんにちは。墓地をご案内し、墓石の製造加工と据付施工をしております石材店の大塚のブログです。

昨日、大塚本社からほど近い上尾市上町にあります、弊社がいつも大変お世話になっている遍照院さまをご紹介いたします。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0049 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0051 山門 

JR上尾駅東口からすぐです。上尾駅東口ロータリーからすぐの県道164号の中山道を越えて間もなく見えてきます。

山門ごしに見える、鐘楼や薬師堂、そして大きな屋根の本堂がとても美しいお寺です。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0053 山門 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0056山号

山門の前には、左右にお地蔵様がいらっしゃいます。合わせて植栽のきれいな庭を楽しむこともできます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0054お地蔵様と灯篭 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0052お地蔵様と無縁塔

山門をくぐってみましょう。松の木越しに見えてくる本堂がとても美しいです。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0058本堂

左手には、藤棚と鐘楼が。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0057藤棚と鐘楼

藤の季節には、とってもきれいな藤の花を見ることができたんですよ!(その時の記事はこちら)

20140423埼玉県上尾市 遍照院の藤DSCF44051

そんな藤棚、よく見てみると、藤の実がなってます!そしてセミの抜け殻も見られました。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0094藤棚と藤の実 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0095-藤棚とセミの抜け殻

角度を変えて鐘楼を見てみます。山門と松の木と鐘楼です。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0066山門と鐘楼と藤棚と桔梗

おや、松の木の足元には・・・

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0067桔梗 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0069桔梗

薄紫色のかわいらしい桔梗の花が咲いてます!

鐘楼の反対側を見てみましょう。

薬師堂が目に入ってきます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0059薬師堂

地蔵菩薩さまの足元にはたくさんのぬいぐるみや人形がいます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0060お地蔵様

手水舎です。身を清めましょう。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0061水屋

手水の作法が書かれていました。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0062手水の作法

せっかくですので引用してみます。

手水の作法

先 柄杓を右手で持ち水をくむ。※この一杯で全ての過程を行う。
次 左手を洗う。
次 柄杓を左手を持ち替えて右の手を洗う。
次 柄杓を再び右手に持ち替え左の手に水を受けて口をすすぐ。※柄杓に口をつけてはいけません。
次 左の手を洗う。
次 柄杓の柄(持ち手)を下にして傾け残った水で柄(持ち手)を洗う。
次 柄杓を元の位置に伏せて置く。

身代わり拭い不動さまがいらっしゃいます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0063身代わり拭い不動 童不動水かけ願い 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0065身代わり拭い不動 童不動水かけ願い

本堂が近づいて来ました。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0071本堂

本堂に向かって右側にいらっしゃるのが弘法大師さま。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0075本堂と弘法大師

左側にいらっしゃるのが興教大師さま。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0072本堂と興教大師

弘法大師さまのさらに右側には、水辺があります。中央には観音様がいらっしゃいます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0080観音様 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0091観音様と池

水辺をよくみてみると、メダカがたくさん泳いでいるのが見えました。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0081池 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0082池のめだか

いよいよご本堂です。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0086本堂

ご本尊は南無大聖不動明王さま。ひだりがわにはご真言の「のうまくさまんだ ばさらだんせんだ まかろしゃだ そわたやうんたらたかんまん」と書かれてます。

ご本尊に手を合わせ。

美しい彫刻についつい目がいってしまいます。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0087本堂の彫刻 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0088本堂の彫刻 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0089本堂の彫刻 埼玉県上尾市 遍照院DSC_0090本堂の彫刻

御本堂をあとにいたします。

大きな供養塔が並んでいる場所の向こう側には墓域が広がっています。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0092供養塔

遍照院の墓地は、そもそも駅近くの市街地中心部にあるということもあってか、遍照院の美しい境内もあってか、とても人気の墓地です。

埼玉県上尾市 遍照院DSC_0093鐘楼と山門とシティタワー上尾駅前 タワマン

寺院建築と高層マンションのコントラストは、まさに日本の縮図というふうに感じられますね。

遍照院さまでは、さまざまな催しものや教室などもされているようですので、ご近所にお住まいでご興味のある方は遍照院さまのサイトを見てみてはいかがでしょうか→遍照院さまサイト

↓こちらもご参考まで。

大塚サイト内での、遍照院さま墓所御紹介ページ

 

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※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・お墓を建てると幸せになる? その6 お墓参りに来てくれる人を想像しての建墓は満足度大です

お墓を建てると幸せになる? その6 お墓参りに来てくれる人を想像しての建墓は満足度大です

前回「・お墓を建てると幸せになる? その5 家族の絆が深まり、互いに思いやれるようになります」に続いての第六回目です。

 

近年、著名人のお墓をお参りすることを生きがいにしている「墓マイラー」という方々が増えています。墓マイラーの方々の中にも、どのお墓をお参りするのかということで、何種類かに分類されるのではないでしょうか。たとえば、自分の好きな偉人のお墓を巡るという人もいるでしょう。「暦女」という言葉もあるように、若い世代に広がる歴史ファンの人たちの中には、歴史上の人物のお墓を回る人たちもいると思います。また、文豪や俳人、文化人のお墓をテーマにまわっているという人もいるでしょうし、テーマは設けずともたとえば多磨霊園に来たので多磨霊園に眠る著名人のお墓をめぐってみる、という人もいるかと思います。江戸時代から続いている谷中墓地(霊園)や青山墓地(霊園)をはじめ大きな都営霊園や、京都などの歴史ある都市の歴史ある寺院、由緒正しい寺院などではたくさんの著名人が眠っています。

そんな、著名人のお墓をめぐることが今ちょっとしたブームなのです。

そして前述しましたように、お墓参りのテーマも、お墓参りする人によってまちまち。人それぞれです。墓地によっては、丁寧な案内図や説明の案内板を掲出しているというところも少なくありません。また、そもそも昔の事柄というのは人の記憶から消えていってしまいがちなもの。なので、「どういった人が眠っているお墓なのか」ということを詳しく説明してくれている案内板もあったりします。そういった案内板があると、その人物と事績を知らないという人でも、その墓地で案内板を見ることで「初めて知る」という場合も多いでしょう。人は興味のない説明版などは目に入ってきません。何回か足を運んでいるという観光地でも、以前は気にもしていなかった案内板の説明書きを、時間がたって改めて見てみると、以前は気にもしていなかった事柄が目に入ってきて「ああ、以前はどうしてこんな興味深いことに気が付いていなかったのだろう」というような場合もあります。墓地の案内板の説明書きも同様のことが言えると思います。

ただ、一つ言えることは、人間の知的興味と、時間と共に消えて忘れていってしまうという「何を成したのか」という事績の記憶に対して、長い年月を経ても変わることのないものがあります。

「お墓というモニュメント」は、どんなに時間がたっても変わることなくそこにあり続けてくれる存在です。

よくある話なのですが、たとえば長い間歴史ファンの中でも地味でマイナーな存在であった人物がいたとして、何かの小説や映画、ドラマや漫画やアニメでも結構です。何かに題材として取り上げられることで、ほとんどお墓参りに来る人もいなかったようなお墓に、お墓参りの方々が次々に訪ねてくるようになった。という例は時々目にし耳にします。日本はやっぱりお墓の文化が根付いているようで、そういった過去の偉人に触れる場としても行為としても「お墓参り」という手段を選ぶ人は少なからずいます。そうしてやっとたどり着いたお墓を前に「やっとお墓参りをしに来れました」「お墓を大切に残してくれていてありがとう」という気持ちを抱く人も少なくないのでは?中にはまるでお墓の中の人が生きているかのように、「やっと会いに来れました」と心の中で会話をする、という人もいるでしょう。

お墓参りは、ご先祖様に対してのみつかわれる言葉ではないのです。

大切なことは「お墓を残してくれていてありがとう」と感じてくれる後の世の人々がいるということ。

昨今では、著名人の方々も生前にお墓を準備しているというケースも少なくありません。昨年で言えば、島倉千代子さんや、やなせたかしさんは生前からお墓を準備していたと有名でニュースなどの報道にも出ていました。そういった著名人のお墓にはファンの皆さんが足を運んでいることでしょう。

振り返って、我々個人個人のお墓で考えてみましょう。私たち生活者は著名人ではありません。もちろん歴史上での大きな事績を残してもいません。文豪でも俳人でもありません。それでも、お墓を作っておくと少なくとも家族はお墓参りをしてくれます。そして想像しにくいかもしれませんが、自分亡きあとにどういった人が自分のお墓に訪ねてきてくれるのか。友人知人や会社の同僚、昔の同級生などはお墓参りに来てくれるかもしれません。しかしそれ以外のいったいだれがお墓参りに来てくれるのか?これは未知数ですし、はかり知ることはできません。

が、人間の墓参したい気持ちというものは当人には計り知れないものがあるのも事実です。自分があまり意識をしていなくとも、全く知り合いでもない人が墓参にくる可能性だって否めないのです。学校で先生をしていたという方や、特殊な論文を書いた過去があるが後の世になってその論文が脚光をあびることもあるでしょう。議員経験があったり、地域の世話人をしていたり、スポーツチームに属していた過去があったり、何か仕事上で特許をとったりしたような人もいるでしょう。いつどこで自分がなした行為に対して、まったく別の方がその事績に敬意を表して墓参するのかはわからないものです。

「ひょっとしたらそういった墓参をする人いるかもしれないな」という方、いらっしゃいませんか?

もちろんお墓は自分のためのものであり、家族のためのものでもあります。しかし、「大切に残してくれていてありがとう」と感じる後世の人たちがいるのも事実です。お墓は、お墓参りしてくれた方に対しての道標ともなりますし、記念碑でもありますし、語りかける対象にもなりえるのです。そして、とても長い年月の間朽ちることなく残すことができる施設でもあります。

死後に有名となった著名人はたくさんいるんです。

自分亡きあとに墓参に来てくれる人がたくさんいるかもしれない。そんなことを考えながらお墓づくりをしてみてもいいのではないでしょうか。もしかしたらの話なので、ひょっとすると自己満足の妄想に終わるかもしれません。それでもいいのではないでしょうか。自分のお墓なのですから。十分に満足するお墓づくりをしてもいいと思うのです。島倉千代子さんのお墓も、やなせたかしさんのお墓も、とてもすばらしいお墓です。後々お墓参りに来た人たちも「おお~さすが!」と感じ入るようなお墓になっていると感じました。そんなお墓づくりをしてみてもいいのではないでしょうか。

 

お墓を建てると幸せになります。お墓参りに来てくれる人を想像しながら記念碑として十分に満足のいくお墓づくりをすることができるからです

 

と、考えますがみなさんはいかがでしょうか?

もちろん、家族親族のことを一番に考えたお墓を作っても十分に満足は得られますよ!

 

 

・埼玉県行田市 高源寺墓地

2014年7月31日木曜日 晴れ

こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログです。

今日は、埼玉県行田市にあります、高源寺墓地に行ってきました。

高源寺墓地は、さきたま古墳にほど近い場所の行田市渡柳にあります。

もともとは、行田市の中心地に近い佐間にあった墓地ですが、都市計画道路によって区画整理のためにここに移転となりました。本堂はまだ佐間にありますので、ここ渡柳には墓地のみということになります。

ですので、とても真新しいきれいな墓地です。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0054 埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0056 埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0057 埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0058

すぐ隣には、さきたま霊園もあります。さきたま霊園の経営主体も高源寺さまになります。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0055

↑塀の向こう側がさきたま霊園です。

墓地の隣には、草原が広がっています。また、近隣にある「さきたま緑道」の並木道もきれいに眺められます。紅葉の時期や、桜の時期には遠望することができる、とっても素敵な立地です。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0053 埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0060

↓中央にいるのは白い蝶々です。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0063

芋虫さんも元気に生きています。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0064

高源寺墓地の現在の入り口です。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0065

↑こちらの写真の右方向には、草原、原っぱが広がってます。

埼玉県行田市 高源寺墓地DSC_0067

小さなお子さんや、わんちゃんがいたりすると喜びそうな原っぱです。それにしてもとっても空が広くて風の気持ち良い墓地です。

高源寺は、小説・映画で大ヒットとなりました「のぼうの城」にも登場する正木丹波守利英公が、豊臣秀吉(石田三成)による忍城攻めの戦没者を供養するために出家して開いたお寺。歴史にご興味のある方にとっても興味深いお寺ではないでしょうか。

なお、このあたり一帯は、古墳時代からの歴史ある土地です。歴史ある土地に歴史ある寺院。そんなお寺で墓地を持つというのもとても素敵なことではないでしょうか。

↓こちらもご参考まで。

大塚サイト内での、高源寺さま墓所御紹介ページ

~ ~ ~ ~ ~

高源寺についての別記事

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました②

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました①

・20140404 埼玉県行田市佐間 高源寺の桜が満開です

・埼玉県行田市 さきたま霊園のご紹介

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その②

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その①

・忍城水攻 石田堤 行田市 鷺栖神社

・のぼうの城に登場した土堤、石田堤に行ってきました

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・大雄山最乗寺にツーリングに行きました

2014年7月9日水曜日 台風が迫ってます

こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、静岡、群馬にて霊園と墓地をご紹介し、墓石の施工を仕事としています株式会社大塚のブログです。

台風が迫っています。十分にお気を付けください。今日の文章は、横浜ランドマークタワーにあります弊社大塚の横浜支社の営業SKさんの記事。少し前の4月頃にツーリングをしてきた話になります。以下本文↓

 

大雄山最乗寺にツーリングに行きました

朝7時に甥の大介君と2人で、ツーリングに出かけました。自宅を出発し、藤沢町田線~新湘南バイパス(410円)~西湘バイパス(310円)を走り小田原へ。

IMG_7239 南足柄ツーリング 西湘バイパス IMG_7240 小田原漁港

今日はとても天気が良く気温も早くも18℃まで上がっていて、絶好のツーリング日和となりました。本日の朝食は、芸能人も多く訪れている小田原漁港内の魚市場食堂にて食べる事にしました。

IMG_7241 小田原漁港内の魚市場 IMG_7242 小田原漁港内の魚市場

土曜・日曜日には行列が出来ると言うこのお店も、時間が(AM8:40着)早かったせいもあり、3組のお客様が居ただけです。まぐろとほうぼうの刺身定食(750円)といかのゲソ揚げ(380円)を注文しました。

IMG_7245 小田原漁港内の魚市場食堂 いかのゲソ揚げ(380円)IMG_7246 小田原漁港内の魚市場食堂 まぐろとほうぼうの刺身定食(750円) 

お値段はとてもリーズナブル。芸能人のサイン色紙も壁に沢山貼られていました。魚市場内と言う事もあり、ネタは新鮮!

IMG_7247 小田原漁港内の魚市場食堂 IMG_7243 小田原漁港内の魚市場食堂

お腹も一杯になった所で、本日の目的地である、南足柄市大雄町にある、大雄山最乗寺に向かいました。

IMG_7248 南足柄ツーリング IMG_7250 南足柄ツーリング IMG_7251 南足柄ツーリング

↓こちらは最乗寺につづく天狗の小道

IMG_7252 大雄山最乗寺 参道 天狗の小径 小道 IMG_7258 大雄山最乗寺 参道 天狗の小径 小道IMG_7253 大雄山最乗寺 参道 天狗の小径 小道 IMG_7255 大雄山最乗寺 参道  天狗の小径 小道石段 石の階段

↓石段を上ると、瑠璃門があります。

IMG_7256 大雄山最乗寺 参道 石段 石の階段 IMG_7257 大雄山最乗寺 山門 瑠璃門 IMG_7259 大雄山最乗寺 山門 瑠璃門

最乗寺は曹洞宗のお寺様で、開創6百年の歴史を持つ関東の霊場であり、堂塔は30余棟に及びます。

↓左が書院で、右が本堂。

IMG_7260 大雄山最乗寺 境内 書院 IMG_7261 大雄山最乗寺 境内 本堂

↓案内図と水に浮かぶ光明亭

IMG_7262 大雄山最乗寺 全景 案内地図 IMG_7263 大雄山最乗寺 境内 光明亭

↓池の噴水にはカメが!

IMG_7264 大雄山最乗寺 境内 池 噴水 亀 IMG_7265 大雄山最乗寺 香炉

↓左が僧堂、右が金剛水堂。

IMG_7266 大雄山最乗寺 境内 僧堂 IMG_7267 大雄山最乗寺 境内 金剛水堂

↓左が奥の院に続く石段。右が開山堂と本堂。

IMG_7269 大雄山最乗寺 境内 IMG_7270 大雄山最乗寺 境内 開山堂と本堂

綺麗な緑に包まれた鐘楼。

IMG_7268 大雄山最乗寺 境内 鐘楼 IMG_7271 大雄山最乗寺 境内 鐘楼

↓境内から外に出る結界門。外側から写真を撮りました。手前にある橋は御供橋。天狗の銅像が門の両サイドにいます。

IMG_7273 大雄山最乗寺 境内 結界門 御供橋 天狗銅像

多宝塔です。

IMG_7277 大雄山最乗寺 境内 多宝塔 IMG_7288 大雄山最乗寺 境内 多宝塔

↓不動堂と洗心の滝。

IMG_7276 大雄山最乗寺 境内 不動堂と洗心の滝

奥の院に続く道には大きな杉の木が続いています。

IMG_7274 大雄山最乗寺 境内 IMG_7280 大雄山最乗寺 境内 杉

さまざまな高下駄が奉納されています。

IMG_7278 大雄山最乗寺 境内 高下駄奉納 IMG_7279 大雄山最乗寺 境内 高下駄奉納 IMG_7281 大雄山最乗寺 境内 奥の院への石段 IMG_7285 大雄山最乗寺 境内 奥の院 観音様 水

周りの緑と石段と建物がとても良くマッチングしており、癒されます。途中に天狗像が見守ってくれてます。

IMG_7284 大雄山最乗寺 境内 奥の院への石段 IMG_7283 大雄山最乗寺 境内 奥の院への石段 天狗の銅像

奥の院に向かう石段は登っても登っても先があり、膝が笑って来たので、途中で明日は仕事であると自分に言い訳をして登るのを断念しました。

IMG_7287 大雄山最乗寺 境内 奥の院 天狗の銅像 IMG_7292 大雄山最乗寺 境内 石楠花 石南花 しゃくななげの花IMG_7293 石楠花 石南花 しゃくななげの花

シャクナゲが綺麗に咲いていました。

 

帰りの茶屋で渇いたのどを潤すと共に甘味が食べたいと思いましたが、残念な事に甘味はメニューにはなし。仕方がないので、代わりに味噌コンニャクを食しました(450円)。とても美味でした。

IMG_7294 大雄山最乗寺 茶屋 IMG_7295 大雄山最乗寺 茶屋 コカコーラ IMG_7296 大雄山最乗寺 茶屋 味噌コンニャク

IMG_7297 山北 やまきた観光案内図 IMG_7298 道標 山北駅 洒水の滝

 

途中、丹沢山別院最勝寺に立ち寄り・・・

IMG_7299 丹沢別院最勝寺 石碑 石柱 IMG_7300 丹沢別院最勝寺 石段 階段 IMG_7301 丹沢別院最勝寺 IMG_7302 丹沢別院最勝寺 IMG_7303 丹沢別院最勝寺 狛犬 IMG_7304 丹沢別院最勝寺 石灯篭 IMG_7305 丹沢別院最勝寺

 

次に向かったのは、山北町の洒水の滝。ここは名水百選の一つです。

IMG_7307 名水百選洒水の滝 IMG_7308 名水百選洒水の滝 IMG_7311 名水百選洒水の滝 IMG_7314 名水百選洒水の滝 赤い橋 進入禁止

お水を飲んで見ましたが、とてもまろやか。滝も見事でしたが、落石の為近くに行けない事がとても残念です。周りの緑はとても鮮やか!

IMG_7306 名水百選洒水の滝 IMG_7310 名水百選洒水の滝

IMG_7315 名水百選洒水の滝 IMG_7317 名水百選洒水の滝 案内図

 

ツーリングに行くと、必ず温泉に入る事にしているので、厚木市七沢の七沢荘にて露天風呂に入りました(一人1,000円・タオルは200円・ロッカー100円)。

IMG_7324 厚木市七沢荘 元気の広場 IMG_7325 厚木市七沢荘

ここの女性用露天風呂は子宝の湯として人気があるようです。

IMG_7318 厚木市七沢荘 温泉 女湯 子宝の湯 IMG_7321 厚木市七沢荘 温泉 男湯

効用は、婦人病やリュウマチなど。確かにお肌はつるつるになります。内風呂はぬるめで、露天風呂は、3つに分かれていて、熱かったり、丁度よかったりと言う感じです。

IMG_7319 厚木市七沢荘 温泉 壁画 IMG_7320 厚木市七沢荘 温泉 IMG_7322 厚木市七沢荘 元気の広場 IMG_7323 厚木市七沢荘 元気の広場 IMG_7326 厚木市七沢荘 桜

最後に、七沢荘から歩いてすぐに行けるZAND-BARにて、醤油淡麗らーめん(780円)を食しました。細麺でしつこくなく、とても美味しい。

IMG_7329 厚木市ZAND-BAR IMG_7331 厚木市ZAND-BAR IMG_7327ZAND-BAR 醤油淡麗らーめん(780円)

後は、国道246号線を走り自宅へと向かいました。自宅をAM7:00に出発し、帰り着いたのは、PM4:30でした。全走行距離143kmでした。

IMG_7332 南足柄ツーリング

(私の愛車は、スズキ スカイウェイブ250typeSです。)

※神奈川県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・五台山 竹林寺 本尊文殊菩薩平成の御開帳

2014年6月7日土曜日 雨

一か月ほど前の事柄になりますが、五台山竹林寺の、50年に一度の本尊文殊菩薩さまの御開帳に行ってきました。五台山竹林寺は高知県にあり、四国霊場三十一番札所になっているため、お遍路さんがたくさん来られてました。

五台山 竹林寺DSC_0198 五台山 竹林寺DSC_0199 五台山 竹林寺DSC_0200

↑駐車場にある看板です。竹林寺の文殊菩薩像は日本三文殊に数えられるもので、行基の作と伝えられているそうです。文殊菩薩に従う四人の従者とともにある文殊菩薩五尊像としては日本最古のものになります。四人の従者が今回の御開帳を案内してくれるそうです。(先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人)今年の秋にも御開帳がなされますが、その後に尊像を拝むことができるのは50年後になります。

五台山 竹林寺 客殿DSC_0202 五台山 竹林寺 鐘楼DSC_0204

客殿の横を通り、鐘楼堂を通過すると立派な山門にたどり着きます。聖武天皇の命にて僧行基が山を開き、その後空海によって整えられ、土佐山内家の庇護もあった立派な境内です。

五台山 竹林寺 山門DSC_0208 五台山 竹林寺DSC_0203 五台山 竹林寺DSC_0205 五台山 竹林寺DSC_0207

四人の従者がまた現れました。「もうすぐあえる。」そうです。わくわくしてきました。振り返ると山門がとても綺麗です。お遍路さんがいっぱい来ました。

五台山 竹林寺DSC_0214

本堂につづく参道、境内の庭には苔むした石塔や神社、お地蔵様などが並んでいます。それにしても苔がとても綺麗です。

五台山 竹林寺DSC_0213 五台山 竹林寺DSC_0216 五台山 竹林寺DSC_0217

参道も広く、大きな石段も幅が広くてとても美しいお寺です。紅葉の季節はきっと抜群の見え方になるのでしょうね。

五台山 竹林寺DSC_0218 五台山 竹林寺DSC_0219

振り返って山門を見てみると、今来た道のずっと向こうに見えます。

五台山 竹林寺DSC_0220

石段の一番上から振り返ると、このように見えます↓美しい石段ですね!

五台山 竹林寺DSC_0239

石段を登り切りますと、複数の堂宇が目に入ってきます。その前に傍らに立つ石塔に目が行ってしまいました。

五台山 竹林寺DSC_0236

↑右の円筒型の石塔には「寄進」の文字が。中央は虚空蔵尊。左は真言を百万遍唱えたと書かれてます。それぞれ意味は異なりますが、信心の深さからの供養塔だということがわかりました。

五台山 竹林寺 五重塔DSC_0221

五重塔が新緑によく映えています。

五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0222 五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0233

五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0235

竹林寺五重塔

塔とはインドの古い言葉で「スツーパ」といい、それが中国で音訳されて「卒塔婆」、さらに略されて「塔」と呼びなられわれるようになったもので、その起源はお釈迦さまのご霊骨(仏舎利)をお祀りする墳墓にはじまります。

最初その形は土饅頭型でしたが、やがて、仏教がインドから中国、そして日本へと東漸伝播するに伴いその姿は各地の風土や人々の精神に合わせ移り変わり、今日、わが国では三重、五重の層をなす塔姿となったものです。

今、天空にそびえ立つ塔を仰ぎ見れば、その姿は仏教東漸の長き歳月と伝来の幾多の風土の中、数限りない人々の仏をしたい仏に祈る心がひとつの形に清らかに昇華されたものとも映りましょう。

当山には古くは三重塔がありましたが明治32年の台風により倒壊、爾来、塔再建を悲願としてきましたが、昭和55年12月、全国より多くの般若心経写経奉納の浄業を得、五重塔として復興することができました。

鎌倉時代初期様式、総高31.20メートル、間口4.80メートル、総檜造り、使用木材1,320石、使用瓦2,800枚、宮大工延べ人数5,400人。建築工事はその設計施工全般を香川県詫間町 富士建設株式会社(真鍋利光社長)が請負、京都宇治の工匠 岩上政雄氏がその施工にあたりました。

塔内にはインド・ブッダガヤより勧請されました仏舎利を納め、また、初塔内陣には大日如来を奉安しております。

~以上、案内板より引用~

五重塔のすぐ足元には、大師堂があります。↓こちらの写真の右側奥に五重塔があります。

五台山 竹林寺 大師堂DSC_0229

お遍路さんがいっぱいです。山内家の三つ葉柏の家紋が印された幕がかかっています。

五台山 竹林寺 大師堂DSC_0228 五台山 竹林寺 大師堂 お手綱・なで五鈷DSC_0226

お手綱・なで五鈷で、お大師さまと結縁ができるそうです。

さて本堂(文殊堂)。

五台山 竹林寺 本堂 文殊堂DSC_0224

↑左側にあるイベントテントが御開帳の入口受付になります。ここから先本堂内は撮影できません。テント内では文殊様の四人の従者についてお教えいただき、本堂内では内陣に進むことができ、貴重な五尊像を拝見することができました。

本堂を出ると、またもや四従者が。ご参拝ありがとうございました。(また会おうね!)

五台山 竹林寺DSC_0225

さて、それではこれから客殿に向かい、さらに文化財を拝見し名勝庭園も拝見させていただこうかなと思います。

五台山 竹林寺DSC_0240

客殿は一番最初の駐車場からすぐの場所にありましたので戻っていきます。途中の参道、やっぱりきれいですね~

客殿です。あいにく、こちらも内部は撮影禁止です。

五台山 竹林寺 客殿DSC_0201

でも、名勝庭園の撮影は大丈夫。国指定の名勝になります。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0241 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0243 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0244 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0246 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0248 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0249

↑こちらの庭園は北庭。大きく半円形につくられていて、どこから見ても正面に見えるように作られています。中央の石がホスト、その石とまるで対話しているかのように座っている石が客人。というようなストーリーを見るものに与えてくれる庭です。作者は臨済宗の高僧、夢窓疎石(夢窓国師)。多くの庭を造られましたがこちらの庭もその一つです。

トイレは当時のままなのでしょうか。とてもきれいな陶器のトイレでした。(穴があり、下に落ちるようになっていました)画像は小さくしておきます。(クリックすると元画像を見られます)

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 陶器のトイレDSC_0250 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 陶器のトイレDSC_0251

↓こちらは西庭。中国の廬山(ろざん)と鄱陽湖(はようこ)を模しているそうです。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0252 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0253 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0255 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0256

先ほどの西庭もですが、思わず音声解説を聞きながらしばらくの間、時間もわすれて眺めてしまいました。こちらも夢窓国師の作です。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0260

カメもいます。井戸も立派です。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0262

客殿は以上です。

竹林寺は、国指定の名勝である庭園のほか、本尊の文殊菩薩五尊像以下本堂などの建築物や幾多の仏像が国指定の重要文化財になっています。宝物の宝庫ですね。

貴重な体験ができた一日でした。

~ ~ ~ ~ ~

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・五台山 竹林寺 本尊文殊菩薩平成の御開帳

 

・川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除け

2014年5月30日金曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県の石材店、大塚のブログです。

今日は、神奈川県川崎市川崎区にあります川崎大師に本社営業のASさんが昨日行ってきたそうで、10年に一度の大開帳を体験されてきたとのことです。

川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除けDSCF5401 川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除けDSCF5402 川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除けDSCF5403 川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除け 本堂DSCF5404

大開帳は10年に一度の大きなイベント。今年26年5月1日から5月31日までという期間限定のものになります。たくさんの人出だったようで、何時間も並んで「赤札」を手に入れてきたとのことです。

↑うえの写真では、一見あまり混んでいないように見えますが・・・

川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除け 行列DSCF5405 川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除けDSCF5406

赤札を求める人たちの行列は本堂の横のほうに伸びていました。

それでは「赤札」です↓

川崎大師の大開帳 赤札 入れ物 ご利益と厄除け1401426256898

ピンク色の入れ物に包まれています。

中身はこちら、右側のお札です。こちらが赤札です↓

川崎大師の大開帳 赤札 入れ物 ご利益と厄除け1401426249558

赤札を拡大してみます。

川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除け1401426240220

弘法大師、空海さんの書かれた字だそうです。よく見てみると「南無阿弥陀佛 空海」と書かれてますね。

ちなみに先ほど赤札を包んでいたピンク色の入れ物は、赤札とは別に購入されてきたとか。

厄除開運のせき止飴も買ってこられたそうです。

川崎大師の大開帳 赤札 ご利益と厄除け1401426232630

炎天下、小さなお子さん連れのお母さんもいたりしたそうですが、みなさん待望の赤札のために何時間も並んでいたそうです。遠くから来られた人もたくさんいたんでしょうね。

この赤札、川崎大師さまサイトによると次のように説明がありました↓

古来から、10年目毎の吉例大開帳奉修期間中に限って
授与される赤札は、弘法大師ご直筆と伝わる「南無阿弥陀佛」の
六字名号を版にして、当山貫首が精進潔斎のうえ、
祈願をこめて一躰ずつを手刷りにされる尊い「護符」です。

この赤札をいただけば、無量の功徳を授かるといわれています。
また、罪障消滅して遍く利益が得られるばかりでなく、
一旦危急に面した場合にも、あらたかな霊験の不思議が
あらわれると、古くから伝え信じられています。

以上、引用させてもらいました。詳しくはこちら→川崎大師さまのサイト、赤札について

ご利益があることを祈ります。

 

さて川崎大師と言えば、以前弊社石材店の大塚で川崎大師のすぐ近くの霊園「大師の杜」をご案内しておりました。またさらに近隣の霊園「メモリアルガーデン川崎」も同じくご案内しておりました。両霊園での弊社大塚の墓石の販売は終了してしまっておりますが、近隣の民営墓地でもまだまだご案内している霊園はございます。川崎市であれば、ヒルズ川崎聖地。横浜市になりますが、都築まどか霊園青葉ニュータウン霊園、東京都町田市では、緑山メモリアルパークメモリアルフォレスト多摩などがあります。(平成26年5月30日現在)

そのほかにも多数の墓地をご案内可能ですので、お気軽にお問い合わせください。

※神奈川県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)

2014年5月15日木曜日 雨のち晴れ

先日、大塚本社のASさんから、埼玉県ときがわ町にあります慈光寺の菁莪(しゃが)の写真をもらいましたので記事にしてみます。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5260

このかわいらしくも凛として華やかな花を持つ植物は、菁莪(しゃが)と言います。著莪とも射干とも書きます。アヤメ科の宿根草で胡蝶花と書かれることもあるとか。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5261

ここ慈光寺にはたくさんのシャガが群生しています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5259

菁莪と書いて「せいが」と読む例は多くみられ、特に明治時代に各地にて学校名として使われていました。今でも小学校や中学校で使われ続けている例もままあります。菁莪とは中国の詩経にある「菁菁者莪」から由来しているようで、「菁菁(盛んに茂るさま)たる莪(あざみ)は材を育するを楽しむ、君子はよく人材を長育す」という文章より、人材を育成すること。英才の育成を楽しむことを「菁莪」という言葉として使われていたようです。そんな「せいが」と「しゃが」の違いについては・・・すみませんわかりませんでした。

さて慈光寺。文化財の宝庫のお寺です。↓こちらは時の鐘。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5239 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5240

↓山門と阿弥陀堂です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5241 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5242 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5243

↓観音堂です。陣外には伝説の「夜荒らしの名馬」があります。左甚五郎作と伝えられています。夜になるとこっそりと抜け出して付近の田畑を荒らしたという伝説があります。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5244 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5245 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5246 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5247 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5248

↓1262年に、亡き畠山重忠・重保親子の供養のために、勝呂左衛門尉行直によっておさめられた板碑(青石塔婆)

都幾山 慈光寺 板碑 DSCF5249 都幾山 慈光寺 板碑 DSCF5250

↓空海書の破体心経です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5251 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5252

↓こちらは良寛書の楷書心経です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5253 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5254

↓国指定重要文化財の銅鐘です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5256 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5258

慈光寺は奈良時代の開山のお寺で、埼玉県では法灯をともし続けている最古のお寺です。鎌倉時代には関東屈指の大寺院でたくさんの塔頭が立ち並んでいました。ゆえに貴重な文化財を多く蔵しております。

↓国指定重要文化財の慈光寺開山塔です。右の建物は覆い堂で、その中に塔が守られています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5262 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5265

↓釈迦堂跡です。昭和60年(1985年)11月26日、放火により釈迦堂や鐘楼が火災となり、釈迦如来像、蔵王権現像などが焼失してしまったそうです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5267

↓足元のシャガと新緑の森と、お向かいの山。とてもいい季節です。見えていませんが、お向かいの山との間には都幾川が流れています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5268

少し移動し、すぐ近くの霊山院に来てみました。↓しまっている門は勅使門です。菊の紋が見えます。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5269 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5270 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5272 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5273

霊山院は、慈光寺の塔頭の一つとして建てられ、東国最古の禅寺。

↓一休さんと木魚とねずみです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5274

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5275 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5276 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5277 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5278 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5279

帰り道、慈光寺山門跡の板碑群を見て行こうと思います。

都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5282 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5288 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5287 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5286 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5285 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5284 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5283

慈光寺は坂東三十三観音の九番霊場になっています。

都幾山 慈光寺 坂東9番霊場 DSCF5280 都幾山 慈光寺 坂東9番霊場 DSCF5281

文化財の宝庫の都幾山慈光寺。菁莪(しゃが)は今が見ごろです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5261

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・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

2014年5月9日金曜日 晴れ

先日の長宗我部元親公のお墓参りに続きまして、元親の長子で戸次川の合戦で戦死した長宗我部信親のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました。

雪蹊寺は高知市長浜の、長宗我部元親公のお墓の比較的近くにあります。場所はこちら↓ 

雪蹊寺は四国八十八か所の33番目の札所です。

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県道に面した入口には「雪蹊寺(33番札所)」の文字とともに「長宗我部信親の墓」の文字のある看板↓もあります。

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↑四国のへんろ道を世界文化遺産に・・・世界遺産を目指しております。「人生御遍路」です。

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延暦年間(782~806)に弘法大師(空海)が開基。ということなので、1200年以上前に建てられたお寺です。もとは高福寺と言いましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天像(国重文)が安置されたことから慶運寺と改称された経緯があります。その後戦国時代に長宗我部元親の法号にちなんで雪蹊寺と改称されました。儒教の南学の中心地とも言われています。

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歴史あるお寺だけあり、古い石塔がたくさん並んでいます。

実はここ雪蹊寺はすぐ隣に「秦神社(はたじんじゃ)」があります。

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秦神社の御祭神は長宗我部元親。長宗我部家は秦の始皇帝の流れを組むという渡来の豪族、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔を名乗っていました。そのためここ秦神社には秦家累代の霊と、家臣忠死者も配神として祀られています。神社の拝殿の幕には、かたばみの紋が。

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長宗我部家の家紋は「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。そのため、雪蹊寺、秦神社には↓の「丸に七つ酢漿草紋」の戦幟がいくつか配置されてました。

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明治の世になり、廃仏毀釈の中、雪蹊寺が一時期廃寺となった際、雪蹊寺に収められていた衣冠束帯姿の長宗我部元親木像をご神体として秦神社が祀られました。なので、秦神社の建立は明治4年です。神社には木造のほか、国指定重要文化財である絹本著色長宗我部元親画像もありますが、現在は高知県立歴史民俗資料館(長宗我部氏の岡豊城跡)に委託保管されています。

秦神社への参拝後、すぐ隣の小高い山にある神社もあわせて参拝。

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長宗我部家臣が奇跡の神鏡を拾い命拾いしたために作られた西宮神社(えびす様)。石段を登った先に社殿があります。実はこの小高い山は、長浜城跡なのです。

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西宮神社はその小高い城跡の一部に祭られています。

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位置的には、秦神社のすぐ横、雪蹊寺の裏手にあたります。なので、雪蹊寺の見事な墓石がちらほら目に入ってきたりもします。

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それでは隣の雪蹊寺に戻ってみます。

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臨済宗のお寺様ということで、凛とした造りのお寺に感じられます。33番札所なので、お遍路さんもいらっしゃってます。

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四国八十八か所のお寺は、弘法大師さまが開いた霊場なのですが、ここ雪蹊寺のように必ずしも真言宗のお寺ではないというところも多々あります。臨済宗の雪蹊寺にも↑のように大師像が置かれていたりします。また、柄杓が篤志の方から奉納されていたりと、なかなか興味深いものを感じました。

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境内を歩いていると、「長宗我部信親公墓所」の案内を発見しました。↑実は右の写真、一番奥の木立の中に宝篋印塔の信親公墓所が見えているのですがわかりますでしょうか?

墓所の手前に案内板が。ここには信親公のお墓だけではなく、戸次川戦没者供養塔、香宗我部系の出で雪蹊寺中興の祖であり、関ケ原戦後の浦戸一揆の際に仲に立って開場に貢献したという月峰和尚のお墓もあります。

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お寺の裏側に木漏れ日の中にお墓はありました。

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↑中央に信親公の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、左に戸次川戦没者供養の五輪塔が、右には月峰和尚の丸い無縫塔(むほうとう)があります。

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お父上の元親公のお墓と比べて一回り小さいサイズではありますが、とても立派で保存状態のよい宝篋印塔です。

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長宗我部家が関ヶ原で西軍につかず、大坂の陣で滅亡せず、江戸から明治まで残る大名になっていたならばもっと大きなお墓になっていたことでしょう。

↓戸次川戦戦没者供養塔です。こちらもとても美しいカタチの五輪塔です。

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長宗我部信親は、長宗我部元親の長男として、将来を嘱望されていた武将です。

父元親は四国平定したものの、その後秀吉に屈服さぜるを得ませんでした。その後の九州征伐にて他の四国勢とともに島津氏と戦うこととなります。窮地に立っていた大友氏を助けるためという名目です。秀吉勢として父元親とともに出征した信親。秀吉の軍監仙石久秀の指揮のもと、戸次川の合戦にて秀吉勢は総崩れとなってしまったのですが、その際に多くの将兵が命を落としました。阿波の有力大名の十河存保(そごうまさやす)や、そして長宗我部信親と多くの供の者(700余名)も命を落としたのです。まだ22歳でした。

信親は身長184センチ、色白の長身だったようで、元親によって跡継ぎとして育てられてきたのですが、家臣の信望もとても厚かったようです。信親の「信」の一文字は織田信長からもらったのですが、その信長からも養子にほしいと言わせた程だったとか。そんな元親の後継者が他の若い多くの将兵とともに戦没したため、この後の長宗我部家は一気に衰えていってしまったとのことです。

戸次川の合戦についての記録は、雪蹊寺からも近い長宗我部元親初陣像の足元にもありますので、よしろければそちらもご覧ください。

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