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記念碑・モニュメント」カテゴリーアーカイブ

・五台山 竹林寺 本尊文殊菩薩平成の御開帳

2014年6月7日土曜日 雨

一か月ほど前の事柄になりますが、五台山竹林寺の、50年に一度の本尊文殊菩薩さまの御開帳に行ってきました。五台山竹林寺は高知県にあり、四国霊場三十一番札所になっているため、お遍路さんがたくさん来られてました。

五台山 竹林寺DSC_0198 五台山 竹林寺DSC_0199 五台山 竹林寺DSC_0200

↑駐車場にある看板です。竹林寺の文殊菩薩像は日本三文殊に数えられるもので、行基の作と伝えられているそうです。文殊菩薩に従う四人の従者とともにある文殊菩薩五尊像としては日本最古のものになります。四人の従者が今回の御開帳を案内してくれるそうです。(先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人)今年の秋にも御開帳がなされますが、その後に尊像を拝むことができるのは50年後になります。

五台山 竹林寺 客殿DSC_0202 五台山 竹林寺 鐘楼DSC_0204

客殿の横を通り、鐘楼堂を通過すると立派な山門にたどり着きます。聖武天皇の命にて僧行基が山を開き、その後空海によって整えられ、土佐山内家の庇護もあった立派な境内です。

五台山 竹林寺 山門DSC_0208 五台山 竹林寺DSC_0203 五台山 竹林寺DSC_0205 五台山 竹林寺DSC_0207

四人の従者がまた現れました。「もうすぐあえる。」そうです。わくわくしてきました。振り返ると山門がとても綺麗です。お遍路さんがいっぱい来ました。

五台山 竹林寺DSC_0214

本堂につづく参道、境内の庭には苔むした石塔や神社、お地蔵様などが並んでいます。それにしても苔がとても綺麗です。

五台山 竹林寺DSC_0213 五台山 竹林寺DSC_0216 五台山 竹林寺DSC_0217

参道も広く、大きな石段も幅が広くてとても美しいお寺です。紅葉の季節はきっと抜群の見え方になるのでしょうね。

五台山 竹林寺DSC_0218 五台山 竹林寺DSC_0219

振り返って山門を見てみると、今来た道のずっと向こうに見えます。

五台山 竹林寺DSC_0220

石段の一番上から振り返ると、このように見えます↓美しい石段ですね!

五台山 竹林寺DSC_0239

石段を登り切りますと、複数の堂宇が目に入ってきます。その前に傍らに立つ石塔に目が行ってしまいました。

五台山 竹林寺DSC_0236

↑右の円筒型の石塔には「寄進」の文字が。中央は虚空蔵尊。左は真言を百万遍唱えたと書かれてます。それぞれ意味は異なりますが、信心の深さからの供養塔だということがわかりました。

五台山 竹林寺 五重塔DSC_0221

五重塔が新緑によく映えています。

五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0222 五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0233

五台山 竹林寺 竹林寺 五重塔DSC_0235

竹林寺五重塔

塔とはインドの古い言葉で「スツーパ」といい、それが中国で音訳されて「卒塔婆」、さらに略されて「塔」と呼びなられわれるようになったもので、その起源はお釈迦さまのご霊骨(仏舎利)をお祀りする墳墓にはじまります。

最初その形は土饅頭型でしたが、やがて、仏教がインドから中国、そして日本へと東漸伝播するに伴いその姿は各地の風土や人々の精神に合わせ移り変わり、今日、わが国では三重、五重の層をなす塔姿となったものです。

今、天空にそびえ立つ塔を仰ぎ見れば、その姿は仏教東漸の長き歳月と伝来の幾多の風土の中、数限りない人々の仏をしたい仏に祈る心がひとつの形に清らかに昇華されたものとも映りましょう。

当山には古くは三重塔がありましたが明治32年の台風により倒壊、爾来、塔再建を悲願としてきましたが、昭和55年12月、全国より多くの般若心経写経奉納の浄業を得、五重塔として復興することができました。

鎌倉時代初期様式、総高31.20メートル、間口4.80メートル、総檜造り、使用木材1,320石、使用瓦2,800枚、宮大工延べ人数5,400人。建築工事はその設計施工全般を香川県詫間町 富士建設株式会社(真鍋利光社長)が請負、京都宇治の工匠 岩上政雄氏がその施工にあたりました。

塔内にはインド・ブッダガヤより勧請されました仏舎利を納め、また、初塔内陣には大日如来を奉安しております。

~以上、案内板より引用~

五重塔のすぐ足元には、大師堂があります。↓こちらの写真の右側奥に五重塔があります。

五台山 竹林寺 大師堂DSC_0229

お遍路さんがいっぱいです。山内家の三つ葉柏の家紋が印された幕がかかっています。

五台山 竹林寺 大師堂DSC_0228 五台山 竹林寺 大師堂 お手綱・なで五鈷DSC_0226

お手綱・なで五鈷で、お大師さまと結縁ができるそうです。

さて本堂(文殊堂)。

五台山 竹林寺 本堂 文殊堂DSC_0224

↑左側にあるイベントテントが御開帳の入口受付になります。ここから先本堂内は撮影できません。テント内では文殊様の四人の従者についてお教えいただき、本堂内では内陣に進むことができ、貴重な五尊像を拝見することができました。

本堂を出ると、またもや四従者が。ご参拝ありがとうございました。(また会おうね!)

五台山 竹林寺DSC_0225

さて、それではこれから客殿に向かい、さらに文化財を拝見し名勝庭園も拝見させていただこうかなと思います。

五台山 竹林寺DSC_0240

客殿は一番最初の駐車場からすぐの場所にありましたので戻っていきます。途中の参道、やっぱりきれいですね~

客殿です。あいにく、こちらも内部は撮影禁止です。

五台山 竹林寺 客殿DSC_0201

でも、名勝庭園の撮影は大丈夫。国指定の名勝になります。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0241 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0243 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0244 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0246 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0248 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0249

↑こちらの庭園は北庭。大きく半円形につくられていて、どこから見ても正面に見えるように作られています。中央の石がホスト、その石とまるで対話しているかのように座っている石が客人。というようなストーリーを見るものに与えてくれる庭です。作者は臨済宗の高僧、夢窓疎石(夢窓国師)。多くの庭を造られましたがこちらの庭もその一つです。

トイレは当時のままなのでしょうか。とてもきれいな陶器のトイレでした。(穴があり、下に落ちるようになっていました)画像は小さくしておきます。(クリックすると元画像を見られます)

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 陶器のトイレDSC_0250 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 陶器のトイレDSC_0251

↓こちらは西庭。中国の廬山(ろざん)と鄱陽湖(はようこ)を模しているそうです。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0252 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0253 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0255 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0256

先ほどの西庭もですが、思わず音声解説を聞きながらしばらくの間、時間もわすれて眺めてしまいました。こちらも夢窓国師の作です。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0260

カメもいます。井戸も立派です。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0262

客殿は以上です。

竹林寺は、国指定の名勝である庭園のほか、本尊の文殊菩薩五尊像以下本堂などの建築物や幾多の仏像が国指定の重要文化財になっています。宝物の宝庫ですね。

貴重な体験ができた一日でした。

~ ~ ~ ~ ~

関連のある記事

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・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

・五台山 竹林寺 本尊文殊菩薩平成の御開帳

 

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました②

2014年6月1日日曜日 晴れ

昨日の記事に引き続きまして、埼玉県行田市にあります忍城の訪問記事になります。(昨日の記事はこちら→ ・埼玉県行田市 忍城に行ってきました①

念のため忍城の場所はこちら。

国道125号線(バイパスではない方)沿いで、行田市役所の隣になります。

前回記事では、御三階櫓を下から眺め、木橋で本丸の堀を渡り、東門から本丸に入ったところまででした。↓こちらの案内図の左下あたりです。

埼玉県行田市 忍城 案内図DSC_0373

本丸の北東部分には、一段高い土塁の上に鐘楼がありました。

埼玉県行田市 忍城 鐘楼DSC_0420 埼玉県行田市 忍城 鐘楼DSC_0422

土塁から振り返ると・・・

埼玉県行田市 忍城 郷土博物館DSC_0421

整備された庭と、行田市郷土博物館が見えます。

埼玉県行田市 忍城 都市景観大賞 さいたま景観賞 石碑DSC_0423 埼玉県行田市 忍城 都市景観大賞 さいたま景観賞 石碑DSC_0424

都市景観大賞と、さいたま景観賞を平成8年に受賞されていたんですね!受賞記念の石碑がありました。そして↓このような案内板もありました。

埼玉県行田市 忍城 足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコース 足袋蔵と行田市の近代化遺産DSC_0426

埼玉県行田市 忍城 足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコースDSC_0428 埼玉県行田市 忍城 足袋蔵と行田市の近代化遺産DSC_0427

行田の町は足袋の町です。戦後はスリッパの生産も盛んになりました。また多くの蔵、足袋蔵も残っているそうで、蔵めぐりも行田の町を探訪する切り口になっています。

それでは郷土博物館に入ってみます。

埼玉県行田市 忍城 郷土博物館DSC_0430

ところが、「館内は撮影禁止」ということ(^_^;)残念!受付の方に「撮影してよいものはありますか?」と聞いてみたところ、入り口すぐの場所にある有志の方寄贈の忍城模型と、のぼうの城関連の掲示物、窓から見える景色は撮影してもよいとのこと。要するに展示物は撮影しないでくださいということのようです。お教えいただきありがとうございました(^_^)

↓こちら撮影許可をもらった模型です。郷土博物館、御三階櫓など現在の様子ですね。精密につくられています。こういった視覚に訴える模型があると、とてもわかりやすくて助かります!

埼玉県行田市 忍城 郷土博物館内の模型DSC_0434

↑の写真の左上方向に受付があります。↓そしてこちらも撮影許可をもらった、のぼうの城関連の掲示物。のぼうの城にまつわる史跡一覧地図になっています。元画像は少し大きめなのでクリックして元画像を拡大してみてください。

埼玉県行田市 忍城 のぼうの城の舞台を歩く(広域図)DSC_0436 埼玉県行田市 忍城 のぼうの城の舞台を歩く(城内図)DSC_0435

受付を通ると、展示物は撮影できませんので、窓から見えたもののみのご紹介になります。途中は鎧兜や刀、武具や各種道具、昔のお城の総構えの模型や現在の街並みとの比較パネル、忍版の御殿の細かな模型や農工具や出土土器、戦前の各種道具など多岐にわたっていました。

御三階櫓の各階にもさまざまな展示があったのですが、最上階から景色を眺めたい気持ちにせかされて早足でまわってしまいました。次回はじっくり見て回りたいです。

さて最上階。四方に窓があるのですが、窓には太い格子があるため、見ることができる景色は少し制限されてしまいます。

埼玉県行田市 忍城から見える さきたま古墳の丸墓山 桜満開DSC_0441

そんななか、ぎりぎり見えました。

埼玉県行田市 忍城から見える さきたま古墳の丸墓山 桜満開DSC_0438

↑さきたま古墳の丸墓山古墳です。豊臣勢による北条攻めの際、忍城を攻める上方勢の大将である石田光成が陣を敷いた場所です。桜の季節なので、満開の桜が綺麗な丸墓山がばっちりと見えました。

ちなみに、以前、丸墓山の頂上から見た忍城御三階櫓はこちら↓

・・さきたま古墳 石田堤 石田三成陣 丸墓山古墳から見た 見える 忍城 本丸 御三階櫓 天守閣 DSC_0079 さきたま古墳 石田堤 石田三成陣 丸墓山古墳から見た 見える 忍城 本丸 御三階櫓 天守閣 DSC_0079-

二月だったので雪が残ってますね。あちらから見えるということは、こちらからも見えるということ。ばっちり丸墓山を拝むことができて一安心です。

↓こちらは御三階櫓から降りてきた際に、渡り廊下から見えた景気です。やっぱり桜の時期に来て大正解だったようです。

埼玉県行田市 忍城 桜と石垣と城塀DSC_0452 埼玉県行田市 忍城 桜と石垣DSC_0453

郷土博物館の一階窓からはきれいな本丸と竹林も見ることができました。絵のようですね。

埼玉県行田市 忍城 郷土博物館から見える竹林DSC_0454 埼玉県行田市 忍城 郷土博物館から見える竹林DSC_0455

名残惜しいのですが、郷土博物館を後にし、残りの歩いていない本丸内を散策です。

埼玉県行田市 忍城 忍城御本丸跡 石碑DSC_0458

郷土博物館横の駐車場の傍らには↑「忍城御本丸跡」の石碑が。野球場だったときからあった石碑なんでしょうね~。

埼玉県行田市 忍城 行田電燈株式会社跡 石碑DSC_0460

↑駐車場の反対側あたり、こちらは「行田電燈株式会社跡」の石碑が。本丸跡はさまざまな使われ方をしていたのが少し残っているのですね。

埼玉県行田市 忍城 郷土博物館駐車場 桜DSC_0462

駐車場も桜に囲まれています。さて、先に進んでみます。

何やら四角い石が五つと立札があります。

埼玉県行田市 忍城 櫓の石垣DSC_0463 埼玉県行田市 忍城 櫓の石垣 立札DSC_0464

なんと「忍城櫓の石垣」とあります!これは石材店の人間としてはよく見てみないと。

埼玉県行田市 忍城 櫓の石垣DSC_0465 埼玉県行田市 忍城 櫓の石垣DSC_0466 埼玉県行田市 忍城 櫓の石垣DSC_0467

四角錐ではありませんが、竜や虎の爪のような美しい形状に整えられているのがわかります。貴重な資産ですね。大切に残して行ってください。

御三階櫓が見えてきました。今度は前回記事とは違い、本丸内から見える御三階櫓です。

埼玉県行田市 忍城 三階櫓と桜DSC_0469 埼玉県行田市 忍城 三階櫓と桜DSC_0470

↑先ほどは、見えている渡り廊下から外の景色を撮影しました。

埼玉県行田市 忍城 三階櫓と桜と城塀DSC_0472 埼玉県行田市 忍城 三階櫓と桜DSC_0473

城塀の上の屋根瓦越しの御三階櫓もまたかっこいいです。

本丸の内側はというと

埼玉県行田市 忍城 本丸DSC_0474

のんびりできる公園になっていました。

小説と映画がヒットした「のぼうの城」に登場する正木丹波守利英(映画では佐藤浩一さんが演じました)が戦没者のために出家して創建したのが高源寺。この高源寺さまは、弊社石材店の大塚がいつもお世話になっておりますお寺様で、墓地と墓石のご案内のお手伝いをさせてもらっています。(弊社高源寺さまページ高源寺の桜の記事

また弊社大塚がご案内しております、さきたま古墳の近くの「さきたま霊園」。こちらの経営母体も高源寺さまです。(弊社さきたま霊園のページ

またどこかのお城に行きましたら記事にしてみます。

~ ~ ~ ~ ~

参照記事 のぼうの城関連の記事

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました②

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました①

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その②

・のぼうの城に登場した丸墓山古墳 さきたま古墳公園 石田堤 その①

・のぼうの城に登場した土堤、石田堤に行ってきました

・忍城水攻 石田堤 行田市 鷺栖神社

 

お城関連の記事

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました②

・埼玉県行田市 忍城に行ってきました①

・埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その②

・埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その①

・群馬県館林市 館林城と出土墓石群

・伝源経基館跡(鴻巣市)

・埼玉県加須市 騎西城(私市城)に行ってきました

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・2014年5月18日、第2回外秩父トレイルラン43に参加してきました

2014年5月25日 日曜日

こんにちは。墓地、霊園をご案内し墓石を販売している石材店の株式会社大塚、ブログ担当のTです。先日の5/18(日)になりますが、大塚本社のUDさんが「第2回外秩父トレイルラン43」に参加してきたそうです。

昨年行われた第1回大会は、「第1回外秩父トレイルラン44」だそうで、43や44というのは距離数だということです。すこしだけコースが変わったようですね。「~寄居から15峠を越えて越生の里へ~」とあります。43キロという数字や、寄居から越生までの距離について、どうも漠然として実感があまりわかないのですが、あとから地図をみて驚きました。

2014年5月18日、第2回外秩父トレイルラン43に参加してきました20140523164825240 

↑当日のパンフレットをお借りしましたので、スキャンさせてもらいました(主催者さま、すみません)。

主催はNPO法人小江戸トレニックワールド。協賛はミドリ安全、アスリートクラブ、ニューサンピア埼玉おごせ梅の湯、ゆうパークおごせ。後援はおごせ町。と、大きな大会なんですね!

パンフレットの表紙に高低図として走行距離と標高の図があるのですが、600メートル以上の標高差を43㎞かけて走るなんて、すごい!の一言です!

2014年5月18日、第2回外秩父トレイルラン43に参加してきました 高低図 標高20140523164825240

小林みかん園、釜山神社、皇鈴山、秩父高原牧場、粥新田峠、大霧山、定峰峠、白石峠、大野峠、刈場坂峠、野末張、大満農業集落センターと、どこかで見たことがあったりする有名な峠の名前やスポットの名前が並んでいます。

2014年5月18日、第2回外秩父トレイルラン43に参加してきました20140523164842097

↑こちらパンフレットの中面なのですが、スタートは寄居町役場前で8時。ゴールはおごせ町のゆうパーク越生で43キロ。制限時間は10時間。累計標高差は2441メートル。ダート率は59%。

15峠というのは、葉原峠、植平峠、仙元峠、塞神峠、釜伏峠、二本木峠、粥新田峠、旧定峰峠、定峰峠、白石峠、高篠峠、大野峠、刈場坂峠、檥(ぶな)峠、飯盛峠。

エイドは7か所、関門は3か所。エスケープルートは各所にあるとか。

募集定員は400名とありますが、当日は500人くらいいたようです。ゴール後にはゆうパークおごせとニューサンピアおごせの二か所の施設で参加賞の入浴券で入れたとか。

また、STYエントリー資格レース(1pt)にもなっている大会だそうで、第一回大会から認定されているようです。ポイントを増やしたい方もたくさん参加されていたのではないでしょうか。

 

↓コースマップです。秩父方面や越生方面を行き来される方はわかるかもしれませんが、「え!ここの山道を走るの?」というコースです。

2014年5月18日、第2回外秩父トレイルラン43に参加してきました コース図20140523164842097

グーグルマップ↓で比較してみてください。

秩父高原牧場や定峰峠、白石峠を通過されたことのある方は、「寄居から越生まで」という距離感が少しわくのではないでしょうか(^_^;)すごいです。

大塚本社のUDさんは、7時間44分でゴールしたとか。順位はまだ記録が届いていないためわからないそうですが、参加されたこと自体すばらしいことですし、完走したことはもっとすばらしい!

これからもランナーのみなさんを応援いたします。

 

秩父の地は板碑の産地。通称板碑と呼ばれている青石塔婆はスタート地点からほど近い長瀞や小川から産出されます。石材店としてはついつい板碑の故郷と思い浮かべてしまいます。また、今回のコースには随所に史跡ものこされており、大切に保存されている石塔や石碑、地域の歴史もついつい思い浮かべてしまいました。

石碑、墓石、お墓についてのことなど、お気軽にお問い合わせください。

~ ~ ~ ~ ~

以前の記事

・第26回 2013上尾シティマラソン

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)

2014年5月15日木曜日 雨のち晴れ

先日、大塚本社のASさんから、埼玉県ときがわ町にあります慈光寺の菁莪(しゃが)の写真をもらいましたので記事にしてみます。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5260

このかわいらしくも凛として華やかな花を持つ植物は、菁莪(しゃが)と言います。著莪とも射干とも書きます。アヤメ科の宿根草で胡蝶花と書かれることもあるとか。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5261

ここ慈光寺にはたくさんのシャガが群生しています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5259

菁莪と書いて「せいが」と読む例は多くみられ、特に明治時代に各地にて学校名として使われていました。今でも小学校や中学校で使われ続けている例もままあります。菁莪とは中国の詩経にある「菁菁者莪」から由来しているようで、「菁菁(盛んに茂るさま)たる莪(あざみ)は材を育するを楽しむ、君子はよく人材を長育す」という文章より、人材を育成すること。英才の育成を楽しむことを「菁莪」という言葉として使われていたようです。そんな「せいが」と「しゃが」の違いについては・・・すみませんわかりませんでした。

さて慈光寺。文化財の宝庫のお寺です。↓こちらは時の鐘。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5239 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5240

↓山門と阿弥陀堂です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5241 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5242 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5243

↓観音堂です。陣外には伝説の「夜荒らしの名馬」があります。左甚五郎作と伝えられています。夜になるとこっそりと抜け出して付近の田畑を荒らしたという伝説があります。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5244 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5245 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5246 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5247 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5248

↓1262年に、亡き畠山重忠・重保親子の供養のために、勝呂左衛門尉行直によっておさめられた板碑(青石塔婆)

都幾山 慈光寺 板碑 DSCF5249 都幾山 慈光寺 板碑 DSCF5250

↓空海書の破体心経です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5251 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5252

↓こちらは良寛書の楷書心経です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5253 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5254

↓国指定重要文化財の銅鐘です。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5256 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5258

慈光寺は奈良時代の開山のお寺で、埼玉県では法灯をともし続けている最古のお寺です。鎌倉時代には関東屈指の大寺院でたくさんの塔頭が立ち並んでいました。ゆえに貴重な文化財を多く蔵しております。

↓国指定重要文化財の慈光寺開山塔です。右の建物は覆い堂で、その中に塔が守られています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5262 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5265

↓釈迦堂跡です。昭和60年(1985年)11月26日、放火により釈迦堂や鐘楼が火災となり、釈迦如来像、蔵王権現像などが焼失してしまったそうです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5267

↓足元のシャガと新緑の森と、お向かいの山。とてもいい季節です。見えていませんが、お向かいの山との間には都幾川が流れています。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5268

少し移動し、すぐ近くの霊山院に来てみました。↓しまっている門は勅使門です。菊の紋が見えます。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5269 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5270 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5272 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5273

霊山院は、慈光寺の塔頭の一つとして建てられ、東国最古の禅寺。

↓一休さんと木魚とねずみです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5274

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5275 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5276 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5277 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5278 都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5279

帰り道、慈光寺山門跡の板碑群を見て行こうと思います。

都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5282 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5288 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5287 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5286 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5285 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5284 都幾山 慈光寺 山門跡の板碑群 DSCF5283

慈光寺は坂東三十三観音の九番霊場になっています。

都幾山 慈光寺 坂東9番霊場 DSCF5280 都幾山 慈光寺 坂東9番霊場 DSCF5281

文化財の宝庫の都幾山慈光寺。菁莪(しゃが)は今が見ごろです。

都幾山 慈光寺の菁莪(しゃが)DSCF5261

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

2014年5月9日金曜日 晴れ

先日の長宗我部元親公のお墓参りに続きまして、元親の長子で戸次川の合戦で戦死した長宗我部信親のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました。

雪蹊寺は高知市長浜の、長宗我部元親公のお墓の比較的近くにあります。場所はこちら↓ 

雪蹊寺は四国八十八か所の33番目の札所です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0468- 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0469

県道に面した入口には「雪蹊寺(33番札所)」の文字とともに「長宗我部信親の墓」の文字のある看板↓もあります。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0470 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0472

↑四国のへんろ道を世界文化遺産に・・・世界遺産を目指しております。「人生御遍路」です。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0474-

延暦年間(782~806)に弘法大師(空海)が開基。ということなので、1200年以上前に建てられたお寺です。もとは高福寺と言いましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天像(国重文)が安置されたことから慶運寺と改称された経緯があります。その後戦国時代に長宗我部元親の法号にちなんで雪蹊寺と改称されました。儒教の南学の中心地とも言われています。

長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0473 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0475 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0476 長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺にDSC_0478

歴史あるお寺だけあり、古い石塔がたくさん並んでいます。

実はここ雪蹊寺はすぐ隣に「秦神社(はたじんじゃ)」があります。

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秦神社の御祭神は長宗我部元親。長宗我部家は秦の始皇帝の流れを組むという渡来の豪族、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔を名乗っていました。そのためここ秦神社には秦家累代の霊と、家臣忠死者も配神として祀られています。神社の拝殿の幕には、かたばみの紋が。

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長宗我部家の家紋は「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。そのため、雪蹊寺、秦神社には↓の「丸に七つ酢漿草紋」の戦幟がいくつか配置されてました。

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明治の世になり、廃仏毀釈の中、雪蹊寺が一時期廃寺となった際、雪蹊寺に収められていた衣冠束帯姿の長宗我部元親木像をご神体として秦神社が祀られました。なので、秦神社の建立は明治4年です。神社には木造のほか、国指定重要文化財である絹本著色長宗我部元親画像もありますが、現在は高知県立歴史民俗資料館(長宗我部氏の岡豊城跡)に委託保管されています。

秦神社への参拝後、すぐ隣の小高い山にある神社もあわせて参拝。

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長宗我部家臣が奇跡の神鏡を拾い命拾いしたために作られた西宮神社(えびす様)。石段を登った先に社殿があります。実はこの小高い山は、長浜城跡なのです。

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西宮神社はその小高い城跡の一部に祭られています。

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位置的には、秦神社のすぐ横、雪蹊寺の裏手にあたります。なので、雪蹊寺の見事な墓石がちらほら目に入ってきたりもします。

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それでは隣の雪蹊寺に戻ってみます。

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臨済宗のお寺様ということで、凛とした造りのお寺に感じられます。33番札所なので、お遍路さんもいらっしゃってます。

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四国八十八か所のお寺は、弘法大師さまが開いた霊場なのですが、ここ雪蹊寺のように必ずしも真言宗のお寺ではないというところも多々あります。臨済宗の雪蹊寺にも↑のように大師像が置かれていたりします。また、柄杓が篤志の方から奉納されていたりと、なかなか興味深いものを感じました。

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境内を歩いていると、「長宗我部信親公墓所」の案内を発見しました。↑実は右の写真、一番奥の木立の中に宝篋印塔の信親公墓所が見えているのですがわかりますでしょうか?

墓所の手前に案内板が。ここには信親公のお墓だけではなく、戸次川戦没者供養塔、香宗我部系の出で雪蹊寺中興の祖であり、関ケ原戦後の浦戸一揆の際に仲に立って開場に貢献したという月峰和尚のお墓もあります。

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お寺の裏側に木漏れ日の中にお墓はありました。

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↑中央に信親公の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、左に戸次川戦没者供養の五輪塔が、右には月峰和尚の丸い無縫塔(むほうとう)があります。

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お父上の元親公のお墓と比べて一回り小さいサイズではありますが、とても立派で保存状態のよい宝篋印塔です。

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長宗我部家が関ヶ原で西軍につかず、大坂の陣で滅亡せず、江戸から明治まで残る大名になっていたならばもっと大きなお墓になっていたことでしょう。

↓戸次川戦戦没者供養塔です。こちらもとても美しいカタチの五輪塔です。

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長宗我部信親は、長宗我部元親の長男として、将来を嘱望されていた武将です。

父元親は四国平定したものの、その後秀吉に屈服さぜるを得ませんでした。その後の九州征伐にて他の四国勢とともに島津氏と戦うこととなります。窮地に立っていた大友氏を助けるためという名目です。秀吉勢として父元親とともに出征した信親。秀吉の軍監仙石久秀の指揮のもと、戸次川の合戦にて秀吉勢は総崩れとなってしまったのですが、その際に多くの将兵が命を落としました。阿波の有力大名の十河存保(そごうまさやす)や、そして長宗我部信親と多くの供の者(700余名)も命を落としたのです。まだ22歳でした。

信親は身長184センチ、色白の長身だったようで、元親によって跡継ぎとして育てられてきたのですが、家臣の信望もとても厚かったようです。信親の「信」の一文字は織田信長からもらったのですが、その信長からも養子にほしいと言わせた程だったとか。そんな元親の後継者が他の若い多くの将兵とともに戦没したため、この後の長宗我部家は一気に衰えていってしまったとのことです。

戸次川の合戦についての記録は、雪蹊寺からも近い長宗我部元親初陣像の足元にもありますので、よしろければそちらもご覧ください。

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2014年5月7日

ゴールデンウィーク中に、四国の戦国大名の長宗我部元親、信親親子のお墓をそれぞれお参りしてきました。

まずは長宗我部元親公のお墓を訪ねてみます。場所はこちら↓ 

↑高知市長浜にあるのですが、小高い山の南面にお墓はありました。地図内の桂浜には先日記事にしました坂本龍馬像があり、鎮守の森公園緑地と書いてある近くにはこちらも先日記事にしました長宗我部元親像があります。おなじく近くにある雪蹊寺には元親の息子信親のお墓があります。

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高知県道34号桂浜はりまや線を南に桂浜方面に進んでいくと看板が見えてきます。県道34号は二筋になっていますが、桂浜に近い方の道です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0465

突き当りまでくると、ここから先は徒歩でしか進めなくなります。様々な案内板が出迎えてくれます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0447

長宗我部元親は土佐を統一し、四国全土を制圧した戦国武将、大名です。秀吉の軍門に降り領土も四国全土から土佐一国に減封されましたが、京都伏見での病没後、後事を託した盛親の代にて関ヶ原の合戦、大阪の陣によって長宗我部氏は歴史上から消えてしまいました。お墓は宝篋印塔のカタチをとっているようです。

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この奥の石段の上にあるようです。

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新緑のこもれびが気持ちの良い細道が続いていますので、奥に進んでみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0451 長宗我部元親公のお墓DSC_0453

石段になる手前に、たくさんの石塔や祠が集められている場所がありました。「兵士の塚」とあります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0452

関ヶ原戦で西軍となった長宗我部家の家臣が1600年12月に起こした浦戸一揆。その戦死した兵士を祀っているもののようです。

さて、では石段を登って先に進んで行ってみましょう。

長宗我部元親公のお墓DSC_0454 長宗我部元親公のお墓DSC_0455

石段はあまり長くはなく、すぐに墓所に到着できました。

重厚な灯籠と柵に囲まれた宝篋印塔の墓所です。

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おそらく明治まで続く大名家となっていたならばこんなに気軽にはお墓参りは出来なかったことでしょう。規模ももっとずっと大きくなっていたのではないでしょうか。

それにしても、やはり立派な宝篋印塔です。

長宗我部元親公のお墓DSC_0458 長宗我部元親公のお墓DSC_0459

宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、元来は「宝篋印経」という経典をいれる仏塔のことを指していましたが、その形状のみの進化が進み、身分や位の高い方、篤信の方の供養塔として現在でも使われている形状の供養塔になります。

長宗我部元親公のお墓DSC_0460

1599年没の長宗我部元親、もうあと少し生きていたならば、関ヶ原にてどういう活躍になってその後の長宗我部氏や土佐国がどうなっていたのだろう・・・と考えてしまいます。

長宗我部元親公のお墓DSC_0462

元親公ゆかりの方が整備されているようですね。ご先祖様を供養する、それが戦国大名のご先祖様でなくともどちらの家でも共通した思いはあることと思います。お参りさせてもらう側として、整備いただいていることはとてもありがたいことですし、何より眠られている元親公の魂もやすまることと感謝いたします。

長宗我部元親公の長男、信親公のお墓はここの近くの雪蹊寺にあるのですが、そちらもお参りしてきましたので別の記事にてご紹介いたします。

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2014年5月4日 日曜日 薄晴れ

昨日の記事に引き続きまして、高知県で見てきました銅像訪問記です。昨日は坂本龍馬先生銅像でしたが、今回は戦国大名の長宗我部元親公。しかも初陣像だそうです。昨今、ゲームや小説等でファンになった方の訪問もあとをたたないとか。

場所はこちら↓https://goo.gl/maps/llEpv 

高知市中心部から桂浜まで通る県道の高知県道34号桂浜はりまや線を、中心街から桂浜方面に向かうと右手に見えてきます。↓この戦国時代のノボリ風の看板が目印。

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「どろんこ祭り」で有名な高知市長浜にある若宮八幡宮の境内地、参道わきにあります。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0273 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0272

坂本龍馬象のある浦戸の桂浜や、長浜の雪蹊寺からも遠くありません。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0270 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0269

馬防柵や物見やぐらの解説がありますが、この地は長宗我部元親初陣の地。1560年22歳の初陣でした。若宮八幡宮の社頭に陣を張り戦勝を祈願し、本山氏の守る長浜城を陥落させ、その後「土佐の出来人」と呼ばれるようになります。このことからこの地に像が建てられました。その後15年で土佐を統一。25年後には四国全土を掌握(1585年)。その後秀吉の軍門に下り、慶長四年(1599年)に61歳で京伏見の館で没しました。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0274 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0297

没年が1599年ですが、関ヶ原の戦いが1600年。跡継ぎの長宗我部盛親が西軍に与し、しかも事情はあっても全く戦働きをしなかったために大名としての長宗我部家は終わりを迎えてしまいました。元親がもう2年生きていたら、全く違う歴史になったのではないでしょうか?高知に山内家も来ることなく、そうすると幕末に坂本龍馬も武市瑞山も中岡慎太郎も岩崎弥太郎も生まれなかったのかもしれません。

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石造りの柵の向こうに銅像が見えてきました。

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新緑越しに見える銅像はかなりかっこよく見えています。実際かっこよかったです(^-^)

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兜には、はっきりと「丸に七つ酢漿草(かたばみ)」の紋が見られます。かたばみは傍食、片喰、片食とも書きます。 長宗我部氏は秦氏の流れの一族です。

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長い槍が印象的で、また動きも迫力がある銅像です。全国のカッコいい銅像のベストテンには入っているのではないでしょうか?左手は何かをつかもうとしているのか、押さえつけようとしているのか・・・

答えはその手の先にありました。

四国全土の地図が足元にあります。そして地図には各地域に蟠踞していた大小名の名前が。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0275 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0276

四国を一掴みにしていたわけですね。

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銅像の傍らには↓このようなものも。

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戸次川の戦いについて。秀吉の軍門に下った長宗我部家は、島津九州征伐の際に他の四国勢とともに出征。大敗を喫してしまい、他の大名有力者とともに長男で英名のほまれの高い長宗我部信親と多くの群臣を失ってしまいました。信親がこの時に戦没していなければ、その後の長宗我部家の運命も大いに変わっていたと言われています。

ちなみに信親の「信」の一文字は、中央で覇を唱えた織田信長とよしみを結ぼうと元親が息子のために信長からもらったものです。でもその信長からは「鳥無き島の蝙蝠」と元親を指して揶揄されてもいたとか。戦国時代の外交は難しかったのでしょう。※鳥無き里の蝙蝠という慣用句があり、信長はそれを転用したわけです。四国なので「島」なのでしょう。

20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0279 20140504 長宗我部元親公初陣像 高知 若宮八幡DSC_0278

戸次川で亡くなった信親の供の方々の名前が列記してありました。

なお、来る2014年5月17日(土)には元親の本拠地だった岡豊城で長宗我部フェスが、ここ若宮八幡宮では5/18(日)に長宗我部祭りが開催されるとか。戸次川でともに戦った豊後大友宗麟鉄砲隊の演武や、甲冑武者行列、戦国BASARAで長宗我部元親役を演じた石野竜三氏のトークショーもあるなど、ものすごく内容盛りだくさん。タイミングが合えば見てみたかったです。

と、高知では近年、長宗我部アゲが勢いついているそうです。もっともっと盛り上がるといいですね!

昨日の記事にも書きましたが、銅像はモニュメントであり記念碑でもあります。弊社大塚の作る墓石もモニュメントであり記念碑でもあります。各地の様々な記念碑を見て勉強していこうと、ブログ担当Tは感じました。

このあと、長宗我部元親のお墓と信親のお墓にもお参りしてきましたので、それはまた別の記事にしてみます。

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2014年5月3日土曜日 晴れ

坂本龍馬の視点に立って、現代の日本、太平洋を見て考えてみる。

難しい話ではありません。つまりこういうことです↓

 

 

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銅像業界(?)の中でも特に有名な、坂本龍馬像の目線の高さに立ってみる!

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と、そんな期間限定の催し物に行ってまいりました。

それでは、現地入りから時系列であらためて書いて行ってみます。

高知県高知市の観光名所、桂浜に向かいます。月の名所の桂浜です。坂本龍馬像のある場所、それが桂浜です。

場所はこちら↓https://goo.gl/maps/XzkL3       20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0339 20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0340 20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0345

桂浜駐車場に到着。桂浜は遊泳禁止の浜です。景観が損なわれるとかそういうことではなく、単に「急激に深くなっており、また波も荒いため危険」だからです。案内板を見て場所を確認したら坂本龍馬像を目指します。龍馬像は桂浜に面した小高い丘の上、松林の頂上にあります。

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後姿が見えてきました。

20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0348 20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0351

台座のプレートには「時 昭和三年五月  建設者 高知県青年」とあります。有志のみなさんによって建てられたということは有名ですね。

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平成26年、2014年4/12土~5/18日までの期間限定にて「龍馬に大接近」の催し物が開催されています。入場料はなんと100円!坂本龍馬ファンにとっては、アイドルの握手会に行くアイドルファンの方や、特急の最後の雄姿を写真におさめる撮り鉄さんのような、とっても貴重なイベントです。何せ普段は坂本龍馬の目線に立つなんてできませんので。

20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0355 20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0389 20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0390 20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0354 20140501 高知 土佐 桂浜 坂本竜馬像 大接近DSC_0391

坂本龍馬像を見たことのある方ならば、↑こんな感じで見た記憶があるのではないでしょうか?ですが今は像の隣に「心はいつも太平洋ぜよ」と書かれた赤い欄干の櫓があるのです。

櫓の足元には説明書きがありました。(クリックすると元画像が表示されます。)

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ではせっかくですので櫓にのぼってみます。ここまで来て登らない手はありませんし。

櫓の内部は、想像通り単管で工事現場チックに作られていますが、足元は広く作られていて、しかも手すりもついています↓ただし、こういった場所を歩いたことのない方にとっては、プチ工事現場体験にもなるかもしれません。

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頂上に着きました。

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携帯電話、カメラ等を落とさないよう注意しましょう。

そして記事冒頭の光景が目に入ってきます。

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下から見上げた想像よりもずっと高く感じられました。坂本龍馬は太平洋の朝日が昇る東を見つめています。「日本の夜明けぜよ」ですね。

櫓の上の欄干内はそんなに広くないのですが、少しだけ角度を変えて撮影することができます。角度によっては見え方が大分変ってきます。表情や考えていることも変わって感じることもできるかもしれません。

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↓遠くを進む柱のある船、なんとなく幕末の大きな帆船に見えなくもありません。

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ところで、坂本龍馬さんが見ている視界には何が見えているのかと言うと・・・

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土佐湾が広がっています。

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港を行き来する船や、↓一番右は種崎海水浴場です。長宗我部の遺臣が相撲大会で悲劇にあった場所でもあります。

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足元↓には、坂本龍馬像を見上げる人たちと、アイスクリンやさんが見えました。坂本龍馬もアイスクリンを食べたいことでしょう。

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余談ですが、アイスクリンというのは、アイスクリームの誤打ではありません。明治2年に日本で初めて横浜馬車道で販売された時の名称が「アイスクリン」でした。その後、牛乳や生クリームの代わりに卵や脱脂粉乳を用いたものを「アイスクリン」と呼ぶようになり、アイスクリームとは別物として歩んできたのですが、現在では沖縄や高知、大阪城公園などの一部でしか見ることができなくなりました。が、ここ高知県では全県で味わうことが出来る美味しいスイーツなんです。

たくさん写真も撮りましたので、櫓を降りてみます。アンケートに答えるともらえるという絵葉書をもらいました↓

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ハガキは三種類あるのですが、手に入れたのは「世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞしる」の龍馬自筆の書の書かれているハガキでした。十代の青年坂本龍馬が詠んだ有名な歌です。

さて、せっかく桂浜まで来たのですから、名勝桂浜、坂本龍馬も愛した桂浜を歩いてみます。

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太平洋はでかいです。海なし県の住人としては、波打ち際が見えるだけでテンションが上がってしまいます。

右手の奥には竜王岬が見えています。絵葉書などにもなる有名な「ザ・桂浜」というアングルです。

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救命ペットボトルと、危険への注意喚起の看板がところどころあります。テンションあがっても、桂浜では海に入ってはいけません。

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振り返ってみます。

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↑岩がありますが、かなり巨大な岩です。人間が見えているので比べてみてください。

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岬の上に立つ神社を目指してみます。

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海津見神社(わたつみじんじゃ)です。竜王宮です。こちらの案内板によると、御祭神は大綿津見神(おおわたつみかみ)。完全に海の神様ですね。創建は不詳ですが、長宗我部時代とも言われているようです。

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最近、海難事故などもニュースにのぼったりしています。海の安全を祈ってきました。社殿内の依代はなんと石塔でした。

振り返って岬の付け根を見てみます。

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↑左が西浜、右が本浜(桂浜)です。かなり険しい岬だということがわかります。

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↑広さのない岬の上の神社なので、社はコンパクトです。絶えず強い海風にさらされているので、社や鳥居など石造りの箇所の風化もとてもはやいようで、内陸にある石造りのものとは大違いの様子でした。

↓こちらの写真、何もないように見えますが、実は中央に坂本龍馬像の頭が見えているんです。拡大するとわかりますよ。

20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0418

岬の足元は、太平洋の親潮が荒々しく水しぶきを上げていました。

20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0426 20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0427

↓ここから見る桂浜の全景です。

20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0431

↓どうやら修学旅行か遠足か社会科見学か、学生さんがたくさん到着したようです。ここは遠足などのメッカでもあります。混雑する前にもどらないと・・・(^_^;)

20140501 高知 土佐 桂浜DSC_0432

坂本龍馬の銅像を見に来ましたが、やはり桂浜はとてもダイナミックで美しい景勝地でした。

坂本龍馬の銅像はモニュメント。弊社大塚の仕事もお墓と言うモニュメントづくりです。たくさんの人が訪れるようなモニュメントはとても素敵ですね!今度はいつか坂本龍馬のお墓も訪問してみたいと思いました。

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近くに長宗我部元親の銅像もあります。訪問記事→長宗我部元親初陣像を見てきました

 

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2014年5月2日金曜日 晴れ

一昨日のことになりますが、高知県香美市にあります「朴ノ木公園」に行ってきました。場所は香美市にあるアンパンマンミュージアム(香美市立やなせたかし記念館)から車で約5分くらい。

グーグルマップではこちらが現地になります。https://goo.gl/maps/gt8Th

やなせたかし先生の実家跡がお墓の公園になると昨年10月このブログでも記事にも書いたのですが、今年2014年4月20日に公開となったとニュースで見てから、尋ねてみたい場所として自分の中で一位になっていた公園です。

ミュージアムのサイトでは「GWはアンパンマンミュージアムからのシャトルバスをご利用ください。(公園専用の駐車場はありません。)」とありましたが、一昨日4/30は平日ということもあり公園近くに駐車することができました。香美市観光協会さんのスタッフブログに、詳しいアクセスについて書かれてました。訪れる人にとってはとてもありがたいブログです!明日からのゴールデンウィーク後半や祝祭日にご訪問される方はアクセスや駐車場に気を付けてください。

さて朴ノ木公園の近くにある高照寺さま。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0120+のコピー

岩室山高照寺平成の大修理で志納された方々のお名前が並んでます。中央の「南無大師遍照金剛」の文字のすぐ右側に「柳瀬嵩」の文字が!柳瀬家の菩提寺だそうです。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園地図DSC_0121+

ホオちゃんが案内してくれてます。朴の木は「ほうのき」と読みます。そしてここは朴の木地区。柳瀬家の菩提寺の高照寺さまと氏神様の厳島神社の間に朴の木公園はあります。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0122 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0123

案内板がありましたので、まよわずに公園にたどりつくことができるのですが、傾斜のあるこの地区に立つそれぞれの家、建物はどちらもとてもきれいな石垣と練塀と複層の屋根を持つ蔵とを見ることができ、穏やかで豊かな土地なんだなぁと感じられます。前夜に降った大雨のせいか、幾筋もながれている水流も水の勢いが強めで、せせらぎの音がずっと聞こえてきています。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0124

↑せせらぎを耳に段々畑を進むと白く丸いものが見えてきました。どうやら公園の北側、裏側が見えているようです。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0125 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0163

↑朴の木公園にたどり着きました。入口には北を向いたお地蔵様と、そして役所の職員の方がいらっしゃいました。簡易ですがトイレもあります。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0159 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0157

やなせたかし先生のお父様のご実家跡地ということですが、巨大な公園ではなく、きれいな植栽とおなじみのキャラクターたちがいる親しみやすい公園です。遠くから見えていた白く丸いものは、そうです!みんなのアンパンマンでした。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0135

この公園のメインはやはり、やなせたかし先生のお墓です。さっそくお参りしましょう。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0136 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0137 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0138

柳瀬家はここにあった 300年以上続いた旧家だが 今は影もかたちもない 一族の墓石は 後方の 山の中腹にある ぼくはここでねむりたい 故郷の土はあたたかい 木蓮科のマグノリア 一本の朴の木にぼくはなりたい 季節にははにかみがちに 白い花を咲かせて 風の中でゆれていたい

やなせたかし

(以上、石碑より引用)

 

石塔の裏側には

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0134

やなせ先生は奥様とお二人で眠られているんですね。

それにしても、とても大きな墓石です。洋型墓のカタチをとっています。そして両脇には大きなアンパンマンとバイキンマン。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0147 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0148 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0139

アンパンマンとバイキンマンは斜め方向を向いています。職員の方に聞いてみたところ、どうやらやなせたかし記念館、アンパンマンミュージアムの方向を向いているようです。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0140

アンパンマンとバイキンマンには、丸い踏み石が続いているのですが、よく見てみると・・・

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0143+ 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0141+ 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0145+

踏み石の中にアンパンマンとバイキンマンとドキンちゃんがいました!(画像だと少しわかりにくいですね(^_^;))

墓石と向き合うように、ふたつの石碑が配置されていました。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0127 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0126 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0128 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0129

ホオノキ やなせたかし

ヒノキは高級な木 ホオノキは低級な木 朴歯の下駄とか マナイタになる でもホオノキのマナイタは 自分が傷ついても 決して包丁の刃をいためない トントントン 音がうれしそう ホオノキはモクレン科 ひかえめな木 ぼくは下駄の歯と マナイタでいい 低級な木のホオノキでいい 生まれたところも香美郡在所村 朴ノ木(ホオノキ)だしね

(以上、石碑より引用)

やなせ先生の詩集があったらぜひ手に入れたいと思います。

もう一方の石碑には

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 アンパンマンのマーチ 歌詞20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0131 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0130 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0132 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0162

アンパンマンのマーチの歌詞が刻まれています。歌詞がかかれているので、石碑の裏側にはJASRACの番号も刻まれています。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0149 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0150 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0151 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0152 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0153 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0154 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0155 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0156

公園内には、おなじみのショクパンマンやカレーパンマン、メロンパンナちゃんとジャムおじさんもいました。(ばたこさんと、めいけんチーズは?)

遠くからもわかるように、公園の名前の書かれた横断幕があります。目印になりますね!

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0161

しかし、なんとよい土地なのでしょう。なんだか離れるのが名残惜しい気持ちになる、風光明媚な場所です。新緑の季節で日差しもあたたかく、とても気持ちよくお墓参りできました。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0160

それにしても段々畑の石垣が幾重にも重なって見えて、とっても綺麗です。さてそろそろ公園を後にしてみます。来た時とは別の道で離れてみます。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0164 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0173

こちらの道から来るときは、↑複層の屋根の付いたこちらの蔵と、↑遠くからも見える横断幕が目印ですね!

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0172 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0165

↑すぐの場所にある氏神様の厳島神社。むこうに公園の横断幕が見えています。ちょっと寄り道してこちらもお参りしてきました。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0166 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0167 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0169 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0170 20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0171

繊細かつダイナミックな石彫刻の灯篭です。すばらしい。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園 厳島神社DSC_0168

規模は決して大きいとは言えない厳島神社でしたが、歴史を感じられる境内と拝殿、そして周りを巡る小川のせせらぎがここちよく癒してくれる、とても暖かな気持ちになる神社でした。きっとやなせ先生も毎日この前をあるいたのでしょうね。

20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園20140430 やなせたかし 墓 朴の木公園DSC_0174

とても気に入ってしまった朴の木地区と、やなせたかし朴の木公園。またいつか尋ねてみたいものです。

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おまけ やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム

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高知県の子供たちにはおなじみのアンパンマンミュージアム。全国からもたくさんの方が訪れています。ゴールデンウィーク中ではありますが平日と言うこともあってすいていました。↑右下の写真、鯉のぼりとともに高知のみで見られる「ふらふ」という大きな旗、大漁旗に似た旗がたなびいています。鯉のぼりと一緒に子供の成長を願う旗です。フラッグが転訛して「ふらふ」と呼ばれているとか。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0176 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0177

↑元気ひゃくばいになりそうです。思わず「あーんぱーんち!」と口に出てしまいそう。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0178

↑この四角い建物がやなせたかし記念館、アンパンマンミュージアムです。

バイキンロボットがこちらをみてます!

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0179

このロボット、実はかなり大きいのです。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0180

バイキンロボットの横の道には、キャラクターたちが並んで展示されています。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0181 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0182

石造りのアンパンマンたちもたくさんいます。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0183 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0184

黒い蝶々も飛ぶ、おだやかな日です。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0190

あんぱんちは、車でくる人をお出迎えしてくれているようですね!

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0192

近隣の案内図です。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0193 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0194

なぜかダムのタービンも展示されています。

20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0195 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0196 20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム20140430 やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアムDSC_0197

水力発電の水車なんですね。でもここにあることでたくさんの方の目に触れることができているのは、とっても貴重なことだと思いました。

 

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2014年4月18日金曜日 雨

昨日の記事「埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その①」引き続き、埼玉県川口市にあります赤山城(赤山陣屋)をご紹介いたします。

 

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0076

前回その①では、山王神社から南東堀に沿って二の丸に向かって進みました。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0084

↑途中、道が横断している箇所もありますが、もう少し続いています。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0085

↑堀の突き当りが見えてきました。突き当りの向こう側が二の丸です。画像の右側が本丸。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0086

↑突き当りまで来て振り返ってみました。堀がクランク状になって続いています。いま立っている場所は二の丸で、左奥の方が「その①」および今歩いてきた道になります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0087

現在地がわかる地図がありました。ここから、いままで歩いてきた南東堀と直角に交わる「西堀」に沿って進んでみようと思います。西堀を進むと、外環道に突き当たるはずです。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0088

西堀も綺麗に保存されています。心なしか南東堀よりも、高低差も見られ、より鋭い角度で保存されているように思えます。そのかわり堀幅は少し狭い?かもしれません。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0089 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0090

赤山陣屋は周囲に巡っている低湿地を外堀として整備し、その内側に人口の内堀を巡らせています。湿地との高低差は10mですが、湿地は足場も悪いので堀としての機能は十分に果たしていたようです。

二の丸を左手に、本丸を右手に見ながら「西堀」沿いに進むと、左手の二の丸が終わるところが確認できました。竹林になっていますが、↓画像の左側と右側で高低差があるのが確認できると思います。画像の左側の高い土地が二の丸。この境界線にも堀があったようですが、確認できませんでした。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0091

西堀の終点にたどり着きました。振り返ってみますと、高低差のある道であったことがわかります。歩きやすく遊歩道がつくられていたので助かりました。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0093

案内板がありますので拡大してみます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0092

地図を左右に横断している線が外環道になります。この外環道沿いに目をうつしてみると

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0095

辛うじて堀を確認できます。↑画像の右上にあるのが外環道なのですが、一般道を見てみると、だいぶ起伏がある土地だということがわかります。こちらの案内板も拡大します。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0094

外環道の向こう側(北側)には出丸がありました。

外環道沿いに今度は進んでみます。北堀沿いになります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0098

先ほどの案内板にもありましたが、確かに高低差10メートルはありそうですね。

高い位置から振り返ってみると

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0099

先ほどの案内板二つがあった場所は、堀が交差する場所だったのですが、そこがいかに低い場所だったのかというのが分かります。

外環沿いにさらに東方向に進みますと、↓こんな場所にたどり着きます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0106

ここは4m道路と交差していて、↓の写真の正面方向(南方向)に進むと、前回記事「その①」で登場しました「赤山城跡」と書かれた石碑にたどり着きます。が、とりあえず↑で見えている遊歩道(外環と並行して見えています)を進んでみます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0104

その前に案内板のご紹介↓

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0100 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0101

四方からの街道はすべて曲輪内の道路につながっており、四つ門には門番屋敷があり、曲輪から本丸へ向かうには表御門を通るしか方法がなかったとのこと。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0102 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0103

赤山陣屋は本丸、二の丸、出丸、家臣屋敷などで構成され、全体で77ha。本丸と二の丸だけでも11haあり、東京ドームはおろか、後楽園遊園地まですっぽり収まってしまう・・・。↑左写真の地図に同縮尺の東京ドームと後楽園遊園地がありますが、比較するとその規模に驚くばかりです。また、現在立っているこの場所は北堀の中心部分で、本丸と出丸をつなぐ土橋が設けられていた場所とのこと。

それでは北堀にそって東方向に進んでみます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0107

↓振り返ると、外環道から遠ざかってきているのがわかります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0108

しばらく進みますと、堀をわたる橋があります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0109

橋の上から堀を見下ろしてみます。高低差のわかりにくい写真ですが、3メートルくらいの高低差を感じます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0110 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0111

そして・・・すぐに行き止まりになりました。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0112

ここがほぼ北堀の東端にあたるようで、ほんのもう少し進むと今度は右折して「東堀」になるようですね。しかし道がないので確認することはできません。またこのすぐ近くにある御陣山稲荷は陣屋の北東部にあたり、鬼門の守りになっているようです。

堀に降りられたので、堀の中から先ほどの橋を見てみました。この高低差、今は盛り土もくずれ、堀も浅く埋まってきていますが、当時は6メートルの高低差だったとか。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0113

行き止まりになりましたので、先ほどのポイントにもどり、選ばなかった道を進んでみようと思います。

↓ここまで戻り、右の写真の道を進んでみます。南に向かうカタチです。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0106 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0104

しばらく行きますと、案内板のある林があります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0116

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0114 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0115

このあたりは本丸の中央部にあたるようで、裏門跡のあたりのようです。すこし南に進めば、「赤山城跡」と書かれた石碑のある十字路に戻ることになります。南堀と交差するポイントになります。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0073

南堀を越え、さらに南に家臣屋敷跡のあった曲輪に進んでみると、

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSCN3615 埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0121

NPO法人赤山陣屋の会の看板と案内地図のある建物が見えてきました。ここにはキャンプでもできそうなカマドなども見えます。

地図を見てみると

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0118

みどり野 安行 エリアマップ。拡大してみます。

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0119

黄色い楕円は「オープンガーデン参加者」さんのようです。なるほど、どうりで↓のようなお庭が道沿いにあるわけですね!

埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)DSC_0120 

今回、保存されている堀跡の保全もさることながら、各所に配置された案内板や地図に大いに勉強にさせてもらいました。川口市、川口市教育委員会に感謝いたします。

この周辺には弊社大塚がご案内している霊園も近くにいくつもあり、川口光輪メモリアル川口フォーシーズンメモリアル川口霊園かわぐちの杜などあり、霊園の多いエリア。

もしご興味ありましたら城址散歩のついでにご見学などもいかがでしょうか?

 

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

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