年中無休 [営業時間:午前9時から午後5時]
facebook
menu
MENU

霊園とお墓のはなし

  • 永代供養墓特集
  • 新しいお墓の形 納骨堂
  • ペットのお墓
  • お墓ができるまで
  • 正しいお墓のクリーニング
  • 一般社団法人 全国優良石材店 全優石 石材店の一流ブランドです
  • 日本石材産業協会
  • 全国石製品協同組合

記念碑・モニュメント」カテゴリーアーカイブ

・長野県上田市 北向観音の紅葉

2014年11月17日 月曜日 晴れ

こんにちは。首都圏にて墓石の製造加工と墓地への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のほか東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内しております。

先日の記事「・20141030 長野県上田城跡公園の紅葉」と「・20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉」と同日の様子になりますが、長野県上田市にあります北向観音の写真をいただきましたので記事にしてみます。

北向観音は上田市内の別所温泉にあります。門前に連なる店の奥に北向観音は見えてきます。

長野県上田市 北向観音DSCF6097

天長2年(825年)、慈覚大師円仁によって開創された霊場ですが、木曾義仲によって源平の争いのさなか、八角三重塔と石造多宝塔を残して焼失してしまいます。現在の本堂は源頼朝の命によって建長4年(1252年)に再興されたものになります。

長野県上田市 北向観音DSCF6098 長野県上田市 北向観音DSCF6108

再興されたとはいえ、700年以上の歴史を刻んだ本堂には圧倒されます。

長野県上田市 北向観音DSCF6100

年代物の額も並んでいます。

長野県上田市 北向観音DSCF6109

この本堂に安置せる本尊は千手観音菩薩である。南面の善光寺阿弥陀如来に相対しているところから「善光寺」だけでは「片参り」になると傳えられており又古くから「厄除観音」として知られている。

観音の平鐘の緒長くこきたれしながき春日も暮れはてにけり 白秋

(以上、引用しました)

長野県上田市 北向観音DSCF6112

本堂を横から見てみましたが、奥行きもあって重厚さがまして感じられます。

↓こちら左から愛染堂、札所観音堂、額堂。

長野県上田市 北向観音DSCF6110

鐘楼と梵鐘があります。

長野県上田市 北向観音DSCF6099 鐘楼と梵鐘 長野県上田市 北向観音DSCF6107 鐘楼と梵鐘

高台にあるので、さぞ遠くまで美しい鐘の音が聞こえる事でしょう。さきほどの北原白秋の歌にもありましたね。

長野県上田市 北向観音DSCF6101 愛染桂 かつら 長野県上田市 北向観音DSCF6106 鐘楼と梵鐘

鐘楼のすぐ横に大きな木があります。有名な「愛染かつら」です。

長野県上田市 北向観音 DSCF6103 愛染桂 かつら

小説「愛染かつら」は映画にもドラマにもなりましたが、川口松太郎氏が境内の愛染堂と桂の木に因んで作られました。

長野県上田市 北向観音 DSCF6102 愛染桂 かつら

温泉薬師瑠璃殿です。一説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建とも言われているようです。湯川の氾濫によって流されてしまい(1741年)ましたが、その後講中の積立金によって1809年に再興されました。

長野県上田市 北向観音DSCF6104 温泉薬師瑠璃殿 長野県上田市 北向観音DSCF6105 温泉薬師瑠璃殿

東北方向の上田市街、そしてその奥に菅平周辺や四阿山など紅葉に包まれた様子がうっすら見えます。

長野県上田市 北向観音DSCF6111

秋の味覚画像のおまけつきです。

松茸そば(1,500円)

長野県上田市 北向観音DSCF6113

北向観音を訪問した同日の記事「・20141030 長野県上田城跡公園の紅葉」と「・20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉」もよろしければご覧ください。

 

・20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉

2014年11月15日 土曜日 晴れ

こんにちは。首都圏にて墓石の製造加工と墓地への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のほか東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内しております。

一昨日の記事(20141030 長野県上田城跡公園の紅葉)と同日の先月末の様子になりますが、長野県小諸市にあります懐古園(小諸城跡)の紅葉の写真です。同じく本社営業の方からのいただきものです。以前訪ねたときの記憶をもとに記事にしてみます。

JR小海線と、しなの鉄道の小諸駅からすぐの懐古園入口、三の門です。小諸城は武田信玄公の軍師山本勘助の縄張りによるとも言われる伝説もあり、江戸初期に関ヶ原の功で封ぜられた仙石久秀により完成された城郭です。なお、大手門は線路の反対側にあります。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6030_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6031_

仙石氏はその後1622年に上田に転封となります。(一昨日の上田城の紅葉の記事参照

小諸は「あの夏で待ってる」の舞台の地だそうです。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6032_

二の丸入口の石段が見えてきました。懐古園の紅葉は、城の勾配もあって野趣に溢れた紅葉を楽しむことができます。それにしても険しい城です(汗)

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6033_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6034_

園内は随所に見事な紅葉が楽しめます。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6035_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6036_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6037_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6038_

真っ赤ですね~。見上げると一面の紅葉色です。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6039_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6042_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6044_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6045_

小諸城跡からは南西を流れる千曲川がよく見えます。こんな高い場所にお城はあるんです。断崖に守られた堅い城だったことでしょう。対岸の山々や川沿いの木々が紅葉しているのもよく見えます。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6040_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6041_

見事な菊も展示されてます。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6046_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6047_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6048_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6049_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6053_

五重塔や力士の菊人形も。この力士、「郷土の名力士 雷電為右衛門」とあります。なるほどですね~。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6054_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6055_

桜の季節には、たくさんの花見客も訪れる懐古園。紅葉の真っ盛りでした。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6050_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6051_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6056_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6057_

山本勘助晴幸が常に愛用したと伝えられる鏡石です。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6058_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6059_

懐古園内にある小諸神社に立つ小諸城址の石碑です。右の石碑は、「是より西小諸領」とあり、領地の境界線にあったものだそうです。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6060_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6061_

険しい斜面に立つ紅葉の木もとてもきれいに見えますね~

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6062_

苔むした野面積みの石垣がとても美しい小諸城です。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6063_

ここ懐古園の駐車場の片隅には、なんとSLがいるんです!

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6064_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6065_

SL C56-144 だそうです。昭和13年6月4日に日立製作所で63,900円で製作され、その後小海線の主役として35年活躍し、昭和48年より小諸市に貸与されているようです。

20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6066_ 20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉DSCF6067_

しかし、城跡とSLなどの鉄道というのは、相性がよいようで他の場所でも見かけたりしますね(・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました②)。公園として史跡、文化財として、一か所にあった方が保存に適しているからでしょうか。

 

こういった史跡や文化財と同じく、弊社の取り扱っている「お墓」も超長期間の記録を保存する施設でもあります。石材は何百年後の世代に情報を保存し伝えることができます。こういった古きを訪ねることは、そのままお墓などを大切にする心にもつながっているように思えます。

お墓についてご質問などありましたらお気軽にお問い合わせください。

 

またどこかのお城情報を手に入れましたら記事にしてみます。

他の城跡関係の記事はこちら

・20141030 長野県上田城跡公園の紅葉

2014年11月13日 木曜日 晴れ

こんにちは。首都圏にて墓石の製造加工と墓地への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のほか東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内しております。

先月末の様子になりますが、長野県上田市にあります上田城跡公園の紅葉の写真をいただきましたので記事にしてみます。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6083 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6082

上田城の本丸への入口、東虎口櫓門の手前です。左の三階櫓が紅葉の樹木と一緒に見えてとても綺麗ですね。門の手前で何やら武将さんたちがいます。記念写真撮ったりしています。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6087

真田日本一の兵(つわもの)と称された武将の真田幸村と、真田十勇士の中から筧十蔵と猿飛佐助がこの日は「出陣」しているとか。赤い人が幸村さんなのでしょうね。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6085

こちらには、右に真田幸隆(祖父)、左に真田昌幸(父)、中央に真田幸村(次男)と真田三代の顔出しパネルがあります。幸村さんのお兄さんの真田信之さん(長男)はないのでしょうか。(ないんですね・・・)

真田は大国に挟まれた小勢力でした。幸隆の代に甲斐の武田に帰順し信濃攻略や越後の上杉との争い、上野攻略など常に前線で活躍しました。昌幸は兄が二人いたため、武田信玄の小姓を務めていましたが信玄没後の長篠の戦で二人の兄を失い、真田家を継ぐこととなります。武田家没落の後は、関東の北条氏、越後の上杉謙信、信濃と甲斐をいち早く抑えた徳川家康という大勢力に囲まれて生き延びねばなりません。頼るべき大樹の武田はもうありません。独立していくため、来るべき大軍を迎え撃つために造られたのがここ上田城と上田の街です。実際に、この時徳川家の大軍を返り討ちにしたりしました(第一次上田合戦)。

北条、上杉、徳川という大勢力を巧みに手玉にとり家の存続をはかった様子を豊臣家五奉行の石田三成や増田長盛から上杉景勝にあてた書面に見られ「表裏比興の者」と評されました。比興(ひきょう)とは、現在では「卑怯」の字をあてたりしますが、本来は「老獪な」や「食わせ者な」といった意味で、武将としては称賛の言葉です。小勢力ながら徳川に勝ち、上杉や北条にも飲み込まれなかったのですから老練さは推し量れます。

豊臣政権下では秀吉から重宝され、その息子の幸村(信繁)は秀吉にたいそう愛され、豊臣の姓をもらったりという厚遇を受けました。幸村の兄である信之はというと、徳川四天王のひとり本田忠勝の息女小松姫を家康の養女として娶り、徳川臣下としての立場を持つようになります。幸村は大谷吉継の娘を娶ります。大谷吉継といえば、石田三成の莫逆の友です。

そして関ヶ原の戦い。戦いは関ヶ原だけではなく、日本中で東西に割れました。会津の上杉討伐に向かった軍が関ヶ原に向かう際、二手に分かれた一手を別働隊として若き徳川秀忠が中山道を率いて上ります。それを待ち構えるのは、ここ上田の真田昌幸、幸村親子。信之は徳川勢です。兄弟を石田勢と徳川勢に分けたあたり、さすが表裏卑怯の将昌幸です。どちらが勝っても真田家は滅亡しません。小国の悲しさからの老獪な選択肢です。昌幸の仕事は上田城で東軍の別働隊の大軍を足止めさせて、大開戦に間に合わせない事。間に合わせなければ上田勢の勝ちです。結果、真田の上田勢の勝ちとなりました(第二次上田合戦)が、世の大勢は東軍の勝利です。勝負に勝って試合に負けたカタチになりました。

その後、江戸開府に伴い徳川勢だった信之は松代藩を起こして真田家を存続させ、昌幸と幸村は高野山に蟄居となります(そして幸村はその後の大阪の役で日本一の兵と称されることになります)。

・・・と、そんな上田城です。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6079 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6086  20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF609020141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6091 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6078 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF609220141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6093 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6095 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6074+

現在の遺構は、関ヶ原戦後に仙石氏によって整えられた城です。真田家の上田城は、戦後徹底的に破却されました。徳川家、二代将軍になる秀忠のメンツをつぶしたのですから、そうなって仕方なかったのでしょう。徳川勢だった真田信之は上田ではなく松代に転封となるのも、味方とはいえ真田の力を弱めるためでしょう。関ヶ原戦後、1622年に仙石忠政が小諸より転封されてきて、改めて上田城を整えて現在に至ります。仙石忠政は、有名な仙石権兵衛久秀の三男です。(仙石久秀といえば、以前書いたこの記事でも触れました→・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました

そんな歴史の城跡も、現在紅葉の真っ最中です。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6069 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6070

見上げてみても見事な紅葉です。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6072 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6073

もうすぐ紅葉も終わりに近づいてきました。紅葉を見るならお急ぎください。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6076 20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6084

と、もらった写真だけをたよりに記事を書いてみました。写真をみていると、「あー、私も上田城で紅葉をみてみたいなぁ~」と感じてしまう、ブログ担当のTでした。

20141030 長野県上田城跡公園の紅葉DSCF6077 

 

またどこかのお城情報を手に入れましたら記事にしてみます。

他の城跡関係の記事はこちら

 

・道後温泉に行ってきました

2014年11月12日水曜日 曇り時々雨

こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今日は、横浜支社のSSさんの旅行記事になります。以下本文↓

 

10月の終わりに 愛媛県松山道後温泉に行ってきました。

道後温泉といえば日本最古の温泉として、千と千尋の神隠しの油屋のモデルの一つとして、有名ですし、文豪夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台、教科書で勉強した俳人正岡子規、日清・日露戦争で大活躍した秋山好古(よしふる)・秋山真之(さねゆき)兄弟生誕の地として有名です。(実は旅行に行くにあたり、ドラマ「坂の上の雲」を見て予習しました)

道後温泉に行ってきました道後温泉本館+

温泉の良さは言うにおよばず、油屋モデルの道後温泉本館の建物も趣がありとても良い旅でした。

道後温泉に行ってきました松山道後温泉 からくり時計

でも今回の旅行で私に一番ヒットしたのは、夏目漱石と秋山兄弟のイケメンぶりでした。

漱石はお札にも載っている中年期の超有名な写真でしかお顔を知らなかったので、↓右側の松山中学教師時代の顔を見てびっくり、

道後温泉に行ってきました夏目漱石さん肖像

甘い感じのイケメンじゃないですか。

そして秋山好古さん(日本騎兵の父だそうです)。

道後温泉に行ってきました秋山好古さん肖像

好みはあるでしょうけど、かなり彫りのふかーいイケメン。(陸軍大学校時代の外国人教官にヨーロッパ人だと思われちゃった)

弟の真之さんは、敵国のロシア将校にロシア人だと間違われちゃったというエピソードもあるくらいの外人顔だったそうです。

道後温泉に行ってきました秋山真之さん肖像

ちなみにドラマでは、好古さんを阿部寛さんが、真之さんを本木雅弘さんが演じてました。納得です。

最後に、お墓の写真です。

道後温泉に行ってきました秋山家墓所 松山

ここには、秋山家の古い先祖のお骨と好古さんの分骨がおさめられているそうです。

東京青山墓地がご本人の墓所だそうなので、おひまがありましたら見学してみて下さい。

 

・北上尾駅東口に新しい石碑が建っていました

2014年10月1日 水曜日 曇り

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、霊園と墓地のご紹介と「お墓のお手伝い」(墓石の製造加工と墓所への据付施工工事)をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

大塚本社の最寄駅はJR高崎線の北上尾駅になるのですが、今朝北上尾駅東口のロータリーの片隅に真新しい石碑を発見しました!

「上尾市原新町土地区画整理事業竣工記念」の石碑のようです。原新町は弊社大塚の本社と中山道を挟んだ反対側の地域で、並行しているJR高崎線と中山道に挟まれた細長い地域です。北上尾東口駅前という好立地でもあります。

20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑DSCN5662 20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑DSCN5663

上記のように、東口南側階段を下りるとすぐ目の前に設置されています。

20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑DSCN5649

残念ながら弊社大塚で作った石碑ではありませんが、地域の住民ということで興味深く拝見し、石造りの作品ということで今回の記事にさせていただきました。

20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑DSCN5650

上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念

本事業は、昭和63年北上尾駅開設に伴い、土地利用の急激な変化と市街地の乱開発が予想されたため、駅周辺の総合的な土地利用を中心としたまちづくりと、駅前広場を含む公共施設の整備改善をはかり、機能的かつ良好な居住環境を有する市街地を形成するために、平成3年6月、権利者の合意のもとに土地区画整理組合を設立し、上尾市の協力を得ながら、22年間の事業期間を経て完成に至りました。

駅前広場をはじめ、中山道の拡幅、区画道路、上下水道、公園などの施設が、本事業によって整備されました。これらの施設は、地域のみなさんの協力によって生み出された貴重な財産です。

ここに本事業の竣功を祝うと共に、本地区のさらなる発展を祈念いたします。

以上、石碑より引用しました。

こちらの文章の下には、昔の北上尾駅前の写真と、平成26年現在の駅前の写真が取り付けられており、大きく変わったことが一目瞭然になっています。

20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑 施工前の北上尾駅前風景写真DSCN5653 20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑 施工後の北上尾駅前風景写真DSCN5654

それにしても貴重な写真ですね~。昔の北上尾駅を知る人には大変懐かしく、今の北上尾駅前しか知らない人には、当時の駅前がちょっと想像つなかいかもしれません。

ロータリーの整備工事の様子の写真もありました。

20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑 整備工事の様子写真DSCN5655 20141001 JR高崎線北上尾駅東口 上尾市原新町土地区画整理事業竣功記念 石碑 整備工事の様子写真DSCN5656

とっても使いやすくなり、きれいな街になりました北上尾東口駅前。長い時間をかけて進められてきた地域のみなさんには感謝のしようもありません。ありがとうございます!

 

さて、少しだけコマーシャルを。弊社大塚は北上尾駅からそう遠くない中山道沿いにあります石材店です。記念碑や石碑などについては、お気軽にご質問・ご相談ください。

大塚の墓石以外での施工例

大塚の仕事 公共物施工例 上尾駅東口 三人像-

上尾駅東口 銅像台座とベンチ

大塚の仕事 公共物施工例 上尾駅東口 母子像の台座-

上尾駅東口 母子像台座

大塚の仕事 公共物施工例 上尾市役所 ロータリークラブ オブジェ-

上尾市役所 オブジェ(ロータリークラブ)

大塚の仕事 公共物施工例 大宮ソニックシティ 鐘塚公園 噴水-

大宮ソニックシティ前 鐘塚公園噴水

墓石以外のご相談につきましても、お気軽にご連絡ください。より詳しくは、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。専門の知識のある者が丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ、お越しの際はこちら → お墓無料相談窓口

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました②

2014年9月28日 日曜日 晴れ

こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、お墓づくりのお手伝い(墓石の製造加工と、墓所への据付施工工事)をしております石材店の大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

前回の記事「・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました①」に続き、その②の記事になります。

まずは前回のおさらい。岩槻城を地図にて今昔を確認してみましょう。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5286 地図 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5285  新曲輪 鍛冶曲輪 地図

↑こちらが新曲輪(岩槻城跡公園)にあります案内板の図。

↓そしてこちらが明治時代の地図と、平成26年現在のグーグルマップ(時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 さんのページを利用させてもらいました)

岩槻新旧地図

元荒川のカタチが大きく変わっているという点と、岩槻城にあった沼地がほとんど『街』になったことがわかります。

 

さて前回は新曲輪から鍛冶曲輪まで空堀の遊歩道を進んでみました。今回は鍛冶曲輪から「菖蒲池」と名付けられている池に進んでみます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5364 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5365

かつては沼地の中にあった岩槻城。現在は数少ない沼地の面影の残る菖蒲池です。菖蒲池という名前がついていますが、蓮の葉がびっしりと水面に広がっていました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5366 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5367

池の中央に赤い欄干のついた橋が見えます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5375

八ツ橋です。カタチがギザギザとクランクが連続しているようで特徴的な橋です。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5369 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5368

橋の途中から水面を見下ろすと、びっしりと広がった蓮の葉を堪能できます。夏場ですと蓮の花も見事なのではないでしょうか。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5370

立派な鯉もたくさん泳いでいます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5371

よく見てみると、公園内の樹木には手作りのかわいらしいプレートがそれぞれにかけられていました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5376

野鳥を見かけても、そっと見守りましょう。(別記事・・・岩槻公園でカワセミを見ました

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5377

元荒川沿いの公園入口まで来てみました。元荒川沿いの道を少し進んでみましょう。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5327 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5328

しばらく進みますと、見えてきたのは特急きぬ。ロマンスカーです。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5329 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5332

東武特急スペーシアの登場で引退されましたが、今見てもとっても迫力満点の先頭車両です。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5330 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5331

お子さんだけでなく、大人も昭和の雰囲気を味わえ楽しめるのではないでしょうか。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5333 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5334

公園を進んでみましょう。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5335 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5336

人形の街ならではの、人形によるからくり時計もあり、広い芝生の広場も広がっています。この広場の中にある池で、野生のカワセミをみました(→その時の記事はこちら

公園内にありました看板によると、やまぶきの花が区の花として制定されたようです。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 区の花 やまぶき_DSCN5352

看板のすぐ近くにやまぶきの花がかわいらしく咲いていました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 区の花 やまぶき_DSCN5353 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 区の花 やまぶき_DSCN5354

岩槻城跡公園をぐるりと一周し終わりました。最後に公園の中央にあります案内板です。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5356

地図をみると、大きな城だったことがわかります。が、残っている遺構はほんの少しです。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5357 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5360 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5361

岩槻城

岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説や、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田)城主となる成田氏とする説など様々です。

16世紀の前半には太田市が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資(うじすけ)が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。

北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長(こうりききよなが)が城主となりました。

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。

室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た大地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構(おおがまえ)が造られました。

城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。

現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。

以上、案内板より引用。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5362

猫に見つめられながら、岩槻城跡公園を後にしてみます。

 

そして向かうは「本丸跡」。本丸跡の碑と案内板が、ガソリンスタンド(出光)さんの敷地内にあります。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 本丸_DSCN5383 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 本丸_DSCN5385

本丸の中央に位置していた場所です。写真は県道2号線(旧国道16号)

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 本丸_DSCN5378 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 本丸_DSCN5379 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました 本丸地図_DSCN5380 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5381

この記事の冒頭に見てもらいました地図に再登場してもらいます。右のグーグルマップ中央やや右寄りにあります、県道2号ぞいのガソリンスタンドがこちらです。

岩槻新旧地図

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5382

~略~
このあたりは、岩槻城の本丸にあたっています。本丸は城の中の中心部で、厳重な防備が施されるとともに、藩政の中心となっていました。ほぼ正方形の外周を高さ6m前後の土塁が取り囲み、南西・南東両炭と南辺に張り出した枡形(※)の3か所には櫓が配置され、さらに枡形に開いた出入り口には二階建ての櫓門が設けられていました。内部に設けられた本丸御殿は江戸時代前期には、徳川将軍の日光社参の際には宿泊御殿としても使用されました。

左上の図は、江戸時代後期の本丸を描いた絵図です。江戸時代中期以降本丸御殿の維持は困難となり、岩槻城の中心機能は本丸から二の丸、そして三の丸へ移転したため、この絵図では本丸御殿は描かれていませんが、櫓や門の外観が描かれていて、その概要を知ることができます。

~略~
(※)枡形・・・城の曲輪(くるわ)の出入り口に設けられた防御施設。通路を屈折させて敵の城内への直進を防いだ。また味方の出撃の際には隊形を整えるはたらきもあった

以上、抜き出して引用しました。

岩槻城の訪問記はこれで終わりになります。またどこかに訪問しました際には記事にしてみたいと思います。

他の城跡関係の記事はこちら

 

弊社は石材店。古い記録をのこしている石材や石碑を取り扱っています。地域の歴史を大切に伝えていくことと、家族の歴史を大切に伝えてくことは、どちらもともに大切なことです。弊社のお墓づくりも後々の世の人の役に立つように心掛けていきたいと思います。

※岩槻と言えば、岩槻光輪浄苑いわつき聖地霊園も遠くないエリアです。ご興味ある方はそれぞれの墓地の紹介ページもご覧ください。岩槻光輪浄苑の墓地紹介ページいわつき聖地霊園の墓地紹介ページ

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・20140918 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介

2014年9月27日 土曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉を中心に東京、神奈川、千葉、群馬にて墓地と霊園をご紹介し、お墓作りのお手伝い(墓石の製造加工、墓石の据付施工工事)をしています石材店の大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今日は、埼玉県蓮田市駒崎にあります星久院(しょうきゅういん)さまをご紹介いたします。

星久院さまは、弊社大塚がいつもお世話になっているお寺さまです。近くにあります桶川霊園の経営主体でもあります。

20140918 埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)DSC_0034 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0035

入口の門柱をぬけて、参道をまっすぐに進みますと、ご本堂が見えてきます。

20140918 埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)DSC_0059 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0060

本堂には「佛光山」と山号のはいった額があります。宗派は真言宗 智山派 。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0063 20140918 埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)DSC_0064 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0072 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0073

境内には、約700年前の板碑(青石塔婆)もあります。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0036 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0037

四国八十八カ所御砂修納。境内にはいるとすぐ右側にあります。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0057 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0058

そしてその後ろには、蓮田市で一番大きいと言われる、宝篋塔(宝篋印塔)がありました。たしかに大きいです。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0095 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0054

土を盛った場所に立っています。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0056 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0094

長い歴史を感じさせてくれる星久院の境内です。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0050 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0038

墓域の様子です。

20140918 埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)DSC_0040 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0049

墓域の入り口には、弊社設置のpopもあります。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0042 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0043

墓域には、外柵のみ完成させた区画があり、ご案内できるじょうたいになっています。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0044 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0045

季節を感じられる植物の息吹もあちこちに見られます。

柿の実がたくさんなっていて、オレンジ色になってきています。秋ですね~

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0086

と思えば、ひまわりが元気に咲いています。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0087

さるすべりの白い花が綺麗に咲いてました。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0088 20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0089

すすきの穂も、もう少しで開いてくるようです。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0096

訪問した日は9/18だったのですが、彼岸花が綺麗に咲いていました。

20140821 埼玉県蓮田市 星久院様のご紹介DSC_0066 20140918 埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)の彼岸花 アゲハチョウ オナガアゲハ 揚羽蝶DSC_0084

 

彼岸花については、下記の記事もご参照ください。

・埼玉県蓮田市駒崎 星久院(しょうきゅういん)の彼岸花と黒アゲハ

・20140921 彼岸花と新幹線

 

四季折々の表情を見せてくれる境内のある星久院さま。こちらもご参考まで→(大塚サイト内での、星久院さま墓所御紹介ページ

 

お墓、墓石については、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が石匠位認定店(全石協)として丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました①

2014年9月20日 土曜日 曇り

こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、お墓づくりのお手伝い(墓石の製造加工と、墓所への据付施工工事)をしております石材店の大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今月初旬に、埼玉県さいたま市岩槻区にあります、岩槻城(岩槻城跡公園と本丸跡)に行ってきましたので写真とともに二回に分けてご紹介いたします。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5284

現在地は、新曲輪(しんくるわ)と呼ばれていた場所にいます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5285

城の南側にありました出丸になります。隣には鍛冶曲輪があり、現存する遺構で公園として整備されているのはここ新曲輪と鍛冶曲輪のみになります。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5286

元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城。沼地の中にありました。新曲輪と鍛冶曲輪は沼の南側、城の東南に位置していました。左下から右上にかけて、大手門の近く→三の丸→本丸→二の丸→元荒川と、旧国道16号(現埼玉県道2号線)が町と城の真ん中を貫いています。沼はもうなく、町が広がっています。

岩槻新旧地図

以前記事にも書きました、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 さんのページを利用させてもらい、明治時代の地図で確認してみると、城の形状が明治時代にはまだ残っていたこと、国道16号(現埼玉県道2号)がすでに存在していること、岩槻に県庁があったこと、元荒川の流れが変わったことも確認できます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5284-

埼玉県指定史跡岩槻城跡

岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。

戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸には新正寺曲輪(※)、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地などからなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀(※)からなる大構(おおがまえ)が取り囲んでいました。

この岩槻公園のあたりは、そのいちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代末の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防御力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防御を固めました。

明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子(※)が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出し(※)など、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。

(※)曲輪・・・城郭を構成する区画

(※)土塁、堀・・・土塁は土を土手状に盛り上げた防御施設。堀は地面を細長く掘り窪めた防御施設。多くの場合、堀を掘った土で土塁を造る

(※)堀障子・・・堀の底に設けられた障害物の一種

(※)馬出し・・・城の出入り口外側に設けられた施設で、出入り口の防備を固め、敵の城内への進入を防ぎ、味方の出撃を容易にする。

以上、案内板より引用。

立派な長屋門が残されています。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5288 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5289 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5292 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5363 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5294

岩槻市指定文化財 岩槻城城門

  指定年月日 昭和33年2月21日
  指定の種別 有形文化財(建造物)
  所有(管理)者 岩槻市

この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから、「黒門」の名で親しまれている。

門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約13メートル、梁間(奥行き)約3.7メートルである。屋根は寄棟造で瓦葺き。

廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和45年(1970)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などとして、移転・利用された。

修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重なものである。

以上、案内板より引用。

近くには人形塚がありました。さすが人形の街いわつきです。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5295 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5296 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5297

人形塚について

昭和46年(1971年)当時の岩槻人形連合協会は10月15日を「人形の日」と決め、埼玉百年を記念してこの岩槻城の一角に人形塚と人形の碑を建立いたしました。人形塚は、郷土の日本画家、関根将雄画伯のデザインによるもので、製作に当たっては、地元の若き人形職人等の熱き協力がありました。
男雛、女雛が仲睦まじく寄り添った姿は「人」を形象し世界の平和と郷土岩槻の限りなき発展を願っております。当地の人形作りの起源は、江戸時代のはじめ日光東照宮造営の頃(1630年)とされています。その後幾とせ、人形作りに心血を注ぎ、いそしんだ先輩父祖の霊を慰め、また多くの人形達の冥福を祈り、この人形塚は作られました。

平成4年3月吉日
  埼玉県観光連盟
  岩槻市観光協会
  岩槻人形協同組合

以上、引用しました。

弊社は石材店です。こういった記念碑や供養碑を見ると、ついもっと勉強しなくては・・・と感じてしまいます。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5313

歌碑があります。

「その頬にぼんぼり映し その髪に桜かざして 城あとに相逢うひとの いまも雛に似る人形のまち」

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5298 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5299

歌碑の隣にはまた古い遺構の門が残されていました。重厚な造りで、屋根のカーブがとても美しい門です。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5301 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5302 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5300

岩槻市指定文化財 岩槻城裏門
  指定年月日 昭和56年5月12日
  指定の種別 有形文化財(建造物)
  所有(管理者) 岩槻市

この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。

現状では、門扉を付けた本柱(ほんばしら)と後方の控柱(ひかえばしら)で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約3メートル、奥行約2メートルであり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸(くぐりど)を付属している。屋根は切妻造で瓦葺き。

左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤屋弥太夫らを奉行として修造それ、文政6年(1823)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。

廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年(1909)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980)岩槻城跡のこの地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。

以上、引用でした。

この辺りは様々な樹木が植えられていて、こもれびがとても気持ちよかったです。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5303 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5312

道路を挟んだ反対側には・・・

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5311

野球場がありました!丁度少年たちの試合中のようです。

そして、先ほどの移築された岩槻城裏門のさらに裏手の土塁を上ってみました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5304 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5307

キノコが生えていたり、雑木林の自然がいっぱいです。土塁の上から、反対側を見下ろしてみました。土塁の下は空堀になっており、遊歩道があるのがわかります。高低差5メートルくらいでしょうか。この、見えている空堀の遊歩道に行ってみようと思います。ただ、ここは崖になっていますので、ぐるりと公園内を歩いて回ってみようと思います。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5287

この土塁が途切れて道になっている場所を抜けると、鍛冶曲輪に向かうことができます。向こう側の方が土地が低いようですね。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5315

30メートルほど進んで振り返ってみました。左右の土塁がことのほか高いことがわかります。↑の写真の左側を向くと↓のように道が続いています。道標にふるさと散策路とあります。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5314

左に行くと赤い橋のある大きな池です。一段低いふるさと散策路が正面方向に伸びていますが、これが空堀跡です。空堀跡の遊歩道を進んでみましょう。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5319 埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5317

少し進むと、↑のような場所があります。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5318

これは「堀障子」というもの。別の城跡などでは「障子堀」とも呼ばれている後北条氏の城づくりに見られる防御装置です。

堀障子

現在地は、新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。発掘調査の結果、堀底まで3m程埋まっており、堀底には堀障子のあることが確認された。

堀障子は畝(うね)ともいい、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動をさまたげたり、飛び道具の命中率を上げることなどを目的として築かれたと考えられ、小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、山中城(静岡県)や埼玉県内の伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており、後北条氏特有の築城技術とみられている。

岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており、底からの高さ約90cm、幅が上で90cm、下で150cmあり、その間隔は約9mあった。この遺構の発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏によって造られたことなど様々なことが判明した。

以上、案内板引用です。

さらに空堀を進んでいくと、土塁の切れ目から池と赤い橋が見える場所がありました。赤い橋にはこの後向かってみようと思います。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5321

この場所を池の側から逆に見てみると、↓このように見えます。熊笹が密集しているのがわかります。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5316

さて、空堀の本道にもどり、さらに南方向に進んでみましょう。 

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5322

空堀はしばらく進むと、左手方向(東方向)にまがっており、さらに進むと行き止まりになりました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5323

行き止まりには階段があります。上ってみましょう。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5324

階段をあがると、広場のように開けた場所が現れました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5325

鍛冶曲輪に到着です。

↓白鶴城址碑。岩槻城の別名が白鶴城。浮城とも言われました。岩槻はもともと「岩付」と書きましたので、岩付城という名前の時代もありました。

埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました_DSCN5326

さて本日の記事はここまで。後半に続きます。

他の城跡関係の記事はこちら

※余談となりますが、弊社はお墓をご案内する石材店です。岩槻と言えば、岩槻光輪浄苑いわつき聖地霊園も遠くないエリアです。ご興味ある方はそれぞれの墓地の紹介ページもご覧ください。岩槻光輪浄苑の墓地紹介ページいわつき聖地霊園の墓地紹介ページ

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデンに行ってきました。

2014年9月14日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県を中心に首都圏(東京、神奈川、千葉、群馬、静岡)にて霊園と墓地をご紹介し、お墓づくりのお手伝い(墓石の製造加工と据付施工工事)をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、埼玉県上尾市にあります「西上尾メモリアルガーデン」に行ってきました。

ここ西上尾メモリアルガーデンの入口は↓こちらの看板が目印。上尾市の荒川に近い畔吉に所在しています。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5435

墓域はこのような↓様子です。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5427 埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5428 埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5431 埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5432

周囲に大きな建物はなく、霊園の西側は荒川の河川敷に接しているのでどこまでも広い眺望が特徴です。よく晴れた日には富士山や秩父連山を望むことができるのも人気のポイントです。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5433

この日は見ることができませんでしたが、晴れた日の富士山はこんなにはっきりと見えるんです。

郊外の霊園 富士山 西上尾

霊園の中央にある建物は管理事務所です。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5434

管理事務所からは墓域が↓このように見えます。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5425

内部では、お墓参りの際にちょっとした休憩をとることができます。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5419

そして、お線香に火をつける着火器があります。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5420

管理事務所の近くにあります永代供養墓の「宮内之塔」です。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5421 埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5422

↓こちらは法要室の入口です。

埼玉県上尾市 西上尾メモリアルガーデン 荒川沿い 霊園 富士山見えるDSCN5423

ご興味ありましたらこちらのお墓情報ページ→西上尾メモリアルガーデンの墓地情報紹介ページ も是非ご参照ください。

※永代供養墓特集のページを見てみる

すぐに永代供養墓の資料を請求したい方はこちら→永代供養墓の資料を請求してみる

※この記事は、平成26年9月現在の写真と情報になります。区画には限りがありますので、ご希望の区画をご案内できない場合はご容赦ください。

 

より詳しくは、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ、お越しの際はこちら → お墓無料相談窓口

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・鋸山 日本寺のお土産に一風変わった湯呑みをもらいました

2014年9月9日 火曜日 晴れ

こんにちは。首都圏で霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と据付施工にてご建立のお手伝いをしている石材店、大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、社内の先輩よりお土産をもらいました。千葉県鋸南市にあります、鋸山の日本寺に行ってきたそうです。

お土産はこちら↓

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 箱DSCN5405

白い箱を開けると

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 箱DSCN5406

中にもまた箱が!そして菊の御紋が!

紫の箱には、聖武天皇勅願所 乾坤山 日本寺と書かれています。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 箱 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5407

般若心経 息災延命 湯呑 だそうです。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 箱 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5408

取り出して茶碗を見てみましょう。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5409

ぐるりと茶碗を一周して般若心経が書かれています。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5410

何やら途中の文字がカラフルです。色即是空(しきそくぜくう)のあたりから、羯諦羯諦(ぎゃーていぎゃーてい)のあたりにかけて特にカラフルです。中央に(中略)と書かれてます!

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5411

取説が入ってました。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 取説DSCN5412

この湯呑みは普通の状態では、般若心経湯呑ですが熱いお茶を注ぐと、忽ち日本一の大仏(薬師瑠璃光如来)が出現され息災延命の湯呑となります。(冷ますと元の状態になります)

熱湯煮沸と、直射日光と、金属タワシみがき砂、レンジは厳禁のようです。

※日本寺の大仏様は、磨崖仏として日本一の大きさを誇っています。

それでは、さっそく熱湯を注いでみます。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5413

じわじわと黒色が晴れていきます

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5414

大仏様がだんだんとあらわれてきました!

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5415

すっかりきれいに出現されました。

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5416

日本一の大仏 薬師瑠璃光如来

息災延命 と書かれています。

ご利益がありますように!

鋸山 日本寺 湯のみ茶碗 土産 熱温度で色が変化 般若心経 大仏 薬師瑠璃光如来DSCN5418

箱にも同じ絵が描かれていました。

温度で色が変わるアイテムは、昔はいろいろあったかと思いますが、最近すっかりお目にかかっていませんでした。なんだか懐かしく感じました。

鋸山、鋸南は石材の産地でもあります。石材店にゆかりのある土地なので、わたしもいつか日本寺の大仏さまに会いに行ってみたいものです。

※千葉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

  page top