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霊園とお墓のはなし

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著名人有名人の墓」カテゴリーアーカイブ

・水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました

2016年1月7日 木曜日 晴れ

こんにちは。首都圏にて霊園と墓地をご紹介、ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

さて今日は横浜支社のATさんの記事になります。以下本文↓

 

漫画家水木しげるさんが昨年2015年の11月11日にお亡くなりになりました。

その訃報に接しゆかりのある調布深大寺へ行ってきました。

 

京王線調布駅北口からバスに乗車し、15分ほどで深大寺門前に到着。

すぐに鬼太郎茶屋発見。

水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました 20151224153826 鬼太郎茶屋 水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました 20151224153845 鬼太郎とねずみ男

鬼太郎、ねずみ男がお出迎え。

懐かしの駄菓子屋の雰囲気。

周りはお茶屋兼お蕎麦屋さんだらけでどこに入ろうか迷うほどです

水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました 20151224155504 駄菓子やお蕎麦やお茶屋さん

お腹が空いてますがまずはお参りを済ませてから。

都内では浅草寺に次ぐ2番目の古刹だそうで

荘厳な佇まいです。

水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました 20151224154350 深大寺山門 水木しげるさんゆかりの調布深大寺に行ってきました 20151224154437 深大寺山門

深大寺周辺は妖怪がそこらへんから出てきても

不思議ではない独特な感じです。

水木茂さんと妖怪は永遠にこの地に生き続けます。

 

※深大寺からすぐの場所にある「調布霊園」の墓地情報のページはこちら。

※おなじくほど近い場所にある「メモリアルガーデン三鷹」の墓地情報のページはこちら。

※東京都の霊園一覧ページはこちら。

・著名人 有名人の墓 大久保利通(東京都 青山霊園)

著名人 有名人の墓 大久保利通

都営青山霊園 2区1種イ15~19側1番

場所はこちら。青山霊園の北側のエリア、中央部分に位置しています。

大久保利通の墓所は、広大な青山霊園の中でも別格の広さと規模があり、霊園北部の中央部分という立地も別格という扱いになっています。

維新三傑で明治の元勲、大久保利通公のお墓にたどり着く前には、大久保家御一族のみなさまの墓所と

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 大久保家DSC_0871 著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 大久保家DSC_0873

そして、増子夫人のお墓、

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 夫人松子君之墓DSC_0872 著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 夫人松子君之墓DSC_0870 著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 夫人松子君之墓DSC_0869

さらには、青銅製の大きな顕彰碑もあります。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓DSC_0868 顕彰碑 青銅製 

まるで神社のように鳥居があり、鳥居の近くには灯籠があるのですが・・・

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 灯籠DSC_0875 著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 灯籠DSC_0874

震災の際に落ちたのでしょうか。灯籠は大きな揺れの際に崩れやすい構造となっているので注意が必要です。

この灯篭のさらにお墓側にもう1セット左右に灯籠があります。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 灯籠 大警視 川路利長DSC_0878

こちらは頭部分が乗った状態でした。そして灯篭の胴部分の柱をみてみますと・・・

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 灯籠 大警視 川路利長DSC_0877 著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 灯籠 大警視 川路利長DSC_0879

『大警視 川路利良』の文字が!大久保利通公と同じく薩摩出身の維新志士の一人で、先日地上波で放映された映画、るろうに剣心にも登場していました。

さて、いよいよ大久保利通公のお墓をお参りしたいと思います。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓DSC_0885

階段を登ったところには鉄の門が以前はあったとのことですが、現在はなくなっていました。おかげで墓石の近くまでお参りすることができるようになっています。

案内板があります。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓DSC_0880

東京都指定旧跡 大久保利通墓

所在地 港区南青山2 青山霊園内(2区1種イ15~19側1番)

標識 昭和15年2月

指定 昭和30年3月28日

大久保利通(1830-1879)は鹿児島藩大久保利世の長男として鍛冶屋町に生まれました。西郷隆盛とともに公武合体運動から倒幕運動に進み、岩倉具視らとは、王政復古を成功させます。明治政府が成立すると参与・参議として中核を担いました。明治四年に岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり、帰国後は内政の充実を唱え征韓論の西郷らと対立します。内務卿として権限を振るい、佐賀の乱や西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方、地租改正反対一揆に対して地租を引き下げて農民を擁護し、板垣退助らと国会開設などの協議(大阪会議)を行います。大久保は、官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築きましたが、明治11年、島田一郎らに紀尾井坂で暗殺されました。

西郷隆盛・木戸孝允とともに、明治維新の三傑といわれています。

平成24年3月 建設 東京都教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 亀趺墓(きふぼ)DSC_0883

拡大してみましょう。『贈右大臣正二位大久保公墓』とあります。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓DSC_0882

鳥居があり、石塔の頂きは「トキン型」となっている神式のお墓ですが、中国由来の「亀趺墓(きふぼ)」で亀が竿石の下にいらっしゃいました。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 亀趺墓(きふぼ)DSC_0881

横から見てみます。

著名人有名人の墓 青山霊園 大久保利通の墓 亀趺墓(きふぼ)DSC_0884

維新の元勲ということで、お墓の形式、規模、そして立地と佇まい、どれをとっても一級のお墓ですね。大久保利通公をはじめ多くの先人のおかげで今の私たちが無事に暮らしているという事実を忘れずに、ゆっくりとお参りをしてきました。またお参りに来たいお墓です。

※東京都の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

・上尾市五番町 相頓寺の徳本行者六字名号供養塔

2015年9月29日 火曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置く石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、上尾市五番町の第二産業道路沿いにあります相頓寺さまに行ってきました。その際「徳本行者六字名号供養塔」を拝見することができました。(同上尾市内の馬蹄寺さまにある徳本行者六字名号供養塔の記事はこちら

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3923+

山門に向かって左手、相頓寺さまの文化財の表示の柱が複数立てられていますが、その中の一つに「上尾市指定有形民俗文化財 徳本行者六字名号供養塔」がありました。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3923+-

さて山門を通り、すぐに目に入ってくるのは御本堂。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3921+

その左手奥、墓域の手前に徳本行者六字名号はあります。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3916+

↑左の石塔です。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3917+

独特の書体が刻まれているのがわかります。

南無阿弥陀仏と刻まれています。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3919+

上尾市指定有形民俗文化財

相頓寺徳本行者六字名号供養塔

上尾市五番町14-2 相頓寺 平成23年3月22日

 徳本行者は、宝暦8(1758)年紀州日高郡に生まれ、天明6(1784)年に出家し、近畿・関東・相模・信濃・飛騨・越中・越後・加賀及び江戸等各地を巡り、昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。文化11(1814)年、小石川に一行院が再興された際、中興開山となった。一行院では、庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥の女中衆で帰依する者が多かったという。文政元(1818)年10月6日示寂、享年61歳であった。

 その平易な念仏信仰は、広く受け入れられ各地に講が結ばれその筆跡の六字名号を刻んだ供養塔が各地に造立されている。

 角柱の正面には、徳本独特の書体で「南無阿弥陀仏」と六字名号を大書し、脇に「徳本(花押)」とある。

 台石正面に講中とあることから、念仏講を結んで造立したものであり、右側面の紀年銘は、造立銘ではなく徳本行者の寂年を示している。したがって、供養塔の造立は、それ以降とみることができる。

 上尾市内に徳本行者の供養塔は三基残っており、それぞれの地域の信仰の様相を知ることができる貴重な文化財といえる。

平成25年3月26日 上尾市教育委員会

※以上、案内板より引用いたしました。

拡大してみましょう。独特な書体がはっきりと確認できます。

上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺 徳本行者六字名号供養塔DSC_3918+-

丸みを帯びていて、且つ親しみやすく柔らかさと温かさを感じられるように思えます。

時には江戸時代の習俗に思いを馳せるのも悪くはありません。

四季折々の表情豊かな境内と、古の文化をとどめる相頓寺さま。おすすめのお寺さまです。

※相頓寺さまの墓地情報のページはこちら。

 

※埼玉県の寺院墓地一覧のページここちらをごらんください。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

 

・上尾市平方 馬蹄寺の徳本行者六字名号供養塔

2015年9月12日 土曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置く石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日上尾市平方にあります馬蹄寺さまに行ってきました。馬蹄寺さまは弊社大塚が日頃たいへんお世話になっているお寺さまになります。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3329

様々な文化財があるのですが、今日は「徳本行者六字名号供養塔」をご紹介いたします。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3330

上尾市指定有形民俗文化財になっています。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3331

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3334

上尾市指定有形民俗文化財 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔

上尾市大字平方2088 馬蹄寺 平成23年3月22日指定

徳本行者は、宝暦8(1758)年紀州日高郡に生まれ、天明4(1784)年に出家し、近畿・関東・相模・信濃・飛騨・越中・越後・加賀及び江戸等各地を巡り、昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。文化11(1814)年、小石川に一行院が再興された際、中興開山となった。一行院では、庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥の女中衆で帰依する者が多かったという。文政元(1818)年10月6日示寂、享年61歳であった。

その平易な念仏信仰は、広く受け入りられ各地に講が結ばれその筆跡の六字名号を刻んだ供養塔が各地に造立されている。

円頭角柱の正面に徳本独特の書体で「南無阿弥陀仏」と陰刻し、その下に「徳本(花押)」とある。

台座正面に「講中」とあることから、馬蹄寺を中心に結んだ念仏講により造立されたものと思われる。

紀年銘の文化14(1817)年11月は、『徳本行者全集』にみられる「文化14年11月11日、平方の里馬蹄寺におゐて斎を致し」の記事と符合する。

上尾市内に徳本行者の供養塔は三基残っており、それぞれの地域の振興の様相を知ることができる貴重な文化財といえる。

平成24年11月22日 上尾市教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

拡大して見てみましょう。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3331-

たしかに、独特な書風の「南無阿弥陀仏」ですね。なめらかで優しみを感じられるように思えます。庶民や大奥の女中衆に人気だったというのもうなずけます。

石塔に刻まれた銘は1817年ですので、200年前に建立された供養塔なのですが、徳本行者の書体は今を生きるわたしたちにも温かさを感じさせてくれるものと感じました。

お近くにお寄りの際は、馬蹄寺さまの入口にありますので見学することができると思います。

そんな歴史的な文化財の生きている馬蹄寺さま。おすすめのお寺さまです。

※馬蹄寺さまの墓地情報のページはこちら。

 

お墓、墓石については、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が石匠位認定店(全石協)として丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

※埼玉県の寺院墓地一覧のページここちらをごらんください。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをごらんください。

 

・著名人 有名人の墓 柳沢吉保公夫婦のお墓(恵林寺)

2015年9月8日 火曜日

こんにちは。首都圏にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

昨日の記事「・著名人 有名人の墓 武田信玄公のお墓(恵林寺)」に引き続き、山梨県甲州市にあります恵林寺の有名人墓所のご紹介です。

江戸幕府の老中、柳沢吉保公の供養塔と正妻定子の供養塔が並んでいます。

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重厚感があり、かつ静謐な空気の聖地ですね。

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柳沢吉保夫妻の墓

昭和62年12月12日市指定

江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府15万石藩主柳沢実の野上吉保と正妻定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保9年(1724)3月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山15万石に転出がきまり、このため同年4月12日恵林寺へ改葬されたものである。

柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献資料の中にもそれをうかがい知れる資料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。

平成元年   市教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

 

また恵林寺には、開山の夢想国師(夢想疎石)の築かれた名勝の庭園もあります。

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そういえば以前、夢想国師が作庭した竹林寺の名勝庭園を思い出しました↓どちらの庭園も美しいですね。

五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0241 五台山 竹林寺名勝庭園 夢窓疎石国師の作庭 DSC_0252 

また著名人のお墓を取り上げたいと思います。

 

さて、弊社は石材店です。夫婦の墓というと「夫婦墓」も近年注目を集めています。お墓をご検討の方はあわせて是非ごらんくださいませ。
・12年目の鴻巣霊園 外柵のない区画、夫婦墓、寿陵
・鴻巣霊園の夫婦墓
・埼玉県上尾市の寺院 馬蹄寺の夫婦墓(永代供養付)
・埼玉県伊奈町小針新宿 西光寺の銀杏

 

・著名人 有名人の墓 武田信玄公のお墓(恵林寺)

2015年9月7日 月曜日

こんにちは。首都圏にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、恵林寺にある武田信玄公のお墓の写真画像をもらいましたのでご紹介いたします。

信玄公のお墓はいくつもの場所に建てられていますが、こちらは恵林寺にある信玄公墓所になります。

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サイズ感が分かりにくいかと思いますが、門の屋根ほどの高さということと、両サイドの灯篭などと比較してとても大きなものだということがわかります。

向かって左手に宝篋印塔(ホウキョウイントウ)、右手に五輪塔と二つの石塔、供養塔が並んでいます。

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とても厳かな雰囲気ですね。神聖な場所です。

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山梨県指定 史跡

武田信玄(晴信)の墓   昭和33年6月11日 指定

武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)の出生。天文10年(1541)21才で家督を次ぎ、甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。

元亀4年(天正元年・1573)4月12日、病のため信州・駒場の陣中で53歳で没した。その10年前、永禄7年(1564)12月1日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、3年間の秘喪の後、天正4年(1576)4月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財)に記録している。

現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。ここに全高349.6センチの五輪塔一基、全高369.6センチの宝篋印塔一基が建立されている。この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文12年(1672)4月12日、信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山現紹が武田家の遠孫・旧臣子孫592人の浄財を得て建立したものであることが判る。

平成14年12月   山梨県教育委員会 市教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

信玄公のお墓のすぐ近くには、武田家臣供養塔がたくさん並んでいます。供養塔の「養」の字がちょっと違う書かれ方になっていますね。

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もうずいぶん前のことになりますが、二十歳くらいの頃、山梨出身の友人(女性)と話をしていた際に「武田信玄ってさぁ~」と口にしたところ、「信玄公と“公”をつけなさい!」と怒られたのを思い出しました。互いに状況を理解するのに時間はかかりませんでしたが、山梨県以外の県では武田信玄に「公」をつけて呼ぶことを学校や地域、家庭で教わることはなく、公をつけて呼ぶことはあまりない(ファンや信奉者の方は別ですけどね)ということに、友人は改めて驚いていたものです。山梨だけでなく、他の県でもあることなのかもしれませんね。

それ以来、できるだけ「公」をつけて呼んでいます!

ちなみに、↓こちらも「公」をつけて呼ばせてもらっている謙信公のお墓です。

上杉謙信公のお墓(林泉寺)新潟県上越市 五輪塔 供養塔DSC01861 

※以前の記事「・著名人 有名人の墓 上杉謙信公のお墓(林泉寺)

そういえば、少し前に武田家の穴山梅雪公のお墓をお参りしてきました。「・著名人 有名人の墓 穴山梅雪公のお墓(静岡県 霊泉寺)

また著名人のお墓の情報がはいりましたら記事にしてみます。

 

 

・著名人 有名人の墓 穴山梅雪公のお墓(静岡県 霊泉寺)

2015年8月2日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県に本社を置き、首都圏を中心に墓地と霊園をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日静岡県静岡市清水区にありますメモリアルガーデン清水に行きました際に、隣接する経営主体の霊泉寺さま境内にあります穴山梅雪公のお墓をお参りしてきました。(霊泉寺の記事はこちら

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1699 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1701

ご由緒書きの案内板があります。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1700

由緒

当山開基穴山梅雪公は甲州武田氏の一族で 母は武田信玄の姉 夫人は武田信玄の娘である。

天正三年(1575)八月から天正十年(1582)二月まで八年間 清水江尻の城主であった。

天正九年六月所領であったこの地に寺領を寄進して霊泉寺を創立して 翌十年六月、宇治田原に没した。

当山に所蔵する宝物は静岡県重要指定文化財として永残されている。

平成十二年八月

霊泉寺廿八世住職 穴山円照 謹立

※以上、引用しました。

 

穴山梅雪(ばいせつ)公は、穴山信君(のぶただ)という名前として武田一門州でもあり、武田二十四将の一人であり、武田信玄公の軍師という立場でもありました。正妻は武田信玄公娘の見性院。

武田家の遠江、駿河への侵攻に際して功績がありました。第一次侵攻の際には興津横山城にて籠城を。そしてその後は現JR清水駅近くにあった清水江尻城代となりました。

信玄公没後は、跡を継いだ武田勝頼(従妹であり、義弟でもある)とは意見が合わず対立し、長篠の合戦の際には戦線を離脱したりなどがあり、天正10年(1582年)2月に織田徳川の武田領への侵攻と武田家の滅亡に際しては、甲斐一国および武田宗家の拝領を条件に織田方に降りました。同年5月に織田信長へのお礼にと徳川家康とともに上洛し安土城で信長と会います。帰り道に堺見物をした翌6月2日に本能寺の変の知らせを受け、徳川家康と共に近畿からの脱出をはかりますが、宇治田原にて農民の一揆により命を落とすこととなります。

その後の穴山家(武田家)は、嫡子勝千代(武田信治)が継ぎますが、若くして亡くなってしまったため穴山武田家は断絶となります。

しかしながら、霊泉寺は代々受け継がれてきました。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1702 

石塔正面を拡大してみました。戒名の「霊泉寺殿古道賢集公大居士」の文字が確認できます。

周囲には、公のお墓を守るようにいくつもの石塔が並べられています。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1703 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1708 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1709

また公のお墓に並んで歴代住職のお墓や穴山家先祖菩提のお墓もありました。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1704 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1705 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1706 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1707

ここからの眺めは最高です。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1711

遠くは美保の松原。そして清水港清見のあたりの埠頭と、手前には興津川。一番手前に見える建物が霊泉寺の本堂と庫裏になります。

美保の松原を眺めて眠る。最高の墓所ですね。

※静岡県の霊園一覧ページはこちらをごらんください。

・上杉謙信公のお墓について、林泉寺さんに聞いてみました

2015年7月11日 土曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、首都圏にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

上杉謙信公のお墓(林泉寺)新潟県上越市 五輪塔 供養塔DSC01861 上杉謙信公のお墓(林泉寺)新潟県上越市 五輪塔 供養塔DSC01863

以前書きました記事「・上杉謙信公のお墓(林泉寺)」について、閲覧された方よりご連絡のメールをいただき、少し追加で調べてみましたので記事にしてみます。

頂いたメールは次の通りです。

【氏名】
元上杉家家臣

【ご質問】
上杉謙信公の墓地との記事がありましたが、正確には墓地跡ではないでしょう
か? 上杉家は立派な霊廟があるのです。謙信公の遺骸もそちらに。遺骸がな
ければ、墓地跡ですよね。杉の立ち並ぶ立派な駐車場もある場所で、謙信公以
外も安置されています。詳細はお調べください。家臣といってもゲームの上杉
家でしたが、墓参してまいりました。一見の価値のある場所だと思います。

 

元上杉家家臣さま、ご指摘ありがとうございます。

ご指摘の通り上杉家は越後から会津、米沢へと転封があり、米沢城下の「春日山林泉寺」にある上杉家廟所に歴代当主とともに眠っているとのこと。それでは春日山城のある上越高田の林泉寺にある上杉謙信公のお墓はどうなのか。わからないことは直球勝負!ということで、上越高田の林泉寺さまに問い合わせてみました。

林泉寺さまからは、上杉家転封の際に墓所の下の甕(遺骸)も会津、その後米沢に移動したという記録は残っておらず、また寺の歴史(口伝)の中にも墓所を移したという情報はなく、この地に眠っていることとして昔と変わらず供養がなされています、とのことでした。謙信公の遺骸を移したという学者の説は昭和になってから出てきた話ということでした。林泉寺は1497年(明応6年)越後守護代長尾能景と曹洞宗の高僧「曇英慧応」とが創建しました。創建518年(2015年現在)になります。謙信公が7歳から14歳まで過ごした場所でもあり、林泉寺八世の益翁宗謙禅師から「謙」の一字をもらい謙信と名乗ったという経緯もあるという、謙信公とのゆかりのとても深いお寺になります。今回のような問い合わせはたびたびあるようで、「疑問なことがあったらご連絡いただければお答えしますよ」と言っていただけました。

 

別の記録(上越高田の林泉寺さまではない記録)によると、謙信公の遺骸は鎧兜を身に着けた状態で甕に入れられており、越後から米沢に移された際には米沢城内に埋葬され供養されていたようで、明治維新後に歴代藩主の眠る上杉家廟所(城下の春日山林泉寺)に移された、とあります。ただし、この甕は上杉家にとってはたいへん神聖なものである犯すべからざるものでもおるため、甕をあけてみるなどの詳細な調査は今までなされていません。この廟所のある春日山林泉寺は、その名の通り越後上越高田にある林泉寺からわかれたお寺さまになります。

 

残念ながら答えは現状ありません。どちらの場所に遺骸があるのかを信じるのかは自由ではありますが、どちらの場所も上杉家にとってとても大切な場所、聖域であることにはかわりありません。ですので、新潟県の林泉寺にあります「上杉謙信公の墓」は「墓跡」ではなく「墓」と言えると思います。少なくとも上越市、高田の多くの方々がそう見ておられるのではないでしょうか。

また、謙信公の深く帰依した仏教では、供養塔はいくつあっても悪いものではなく、たくさんの方が供養に訪れることができるので、むしろより供養になるといわれてもいます。特に戦国大名などは複数の墓所がある例も稀ではありません(高野山など)。

そして、世に「墓」と呼ばれるものの中には、必ずしも遺骨や遺骸が納められている、墓石の下に眠っている、とは限らないものも多くあります。遠い戦地で亡くなった方、遺品のみの方、遺骸のない方、などなど実に様々です。また、「供養塔」は文字通り供養する塔。開眼供養という法要があるのですが、お墓を建立する際には石塔に先祖の霊などに入ってもらうという法要がなされます。ですので墓石はただの石ではなく、石に先祖の祖霊(もしくはご本人の霊魂)がいらっしゃる、ということにもなります。著名人や歴史上の人物の墓が複数あるというのもこういったことを考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

 

今回、ご指摘のメールをいただいたことで該当の寺院に問い合わせをしてみたり、色々と調べてみるという切っ掛けとなりました。元上杉家家臣さま、重ねてありがとうございました。

謎のままであることもまたロマンです。機会がありましたらどちらの墓所、廟所、そして高野山の上杉家墓所もたずねてみたいと思いました。

 

・著名人 有名人の墓 大平正芳(東京都 多磨霊園)

著名人 有名人の墓 大平正芳

都営多磨霊園 9区1種1側15番

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0641

1910年(明治43年)3月12日生まれ、1980年(昭和55年)6月12日永眠 享年70歳。

香川県香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家にて8人兄弟の第6子(三男)として育つ。ただし、姉と兄の計二名は夭折。

1933年(昭和8年)東京商科大学(現一橋大学)に進学。1936年大蔵省に入省。池田隼人は上司にあたり、人間関係が作られる。1949年(昭和24年)池田蔵相の秘書官となる。二年後の1951年(昭和26年)池田隼人からの誘いにより大蔵省を辞し、衆議院議員に立候補し当選。以降11回連続当選。池田内閣では内閣官房長官を務めた後、外務大臣となり日韓国交正常化にあたる。日中関係の改善にも努めた。その後佐藤栄作内閣では政調会長、通商産業大臣を。田中角栄内閣では外務大臣、大蔵大臣を。三木武夫内閣でも大蔵大臣を。福田赳夫内閣にて幹事長を務める。

1978年、第68代内閣総理大臣に就任し、「三角大福」の四人のうち最後に総理となる。田中角栄の影響が強かったことから「角影内閣」と呼ばれた。イラン革命や第二次石油危機、ソ連のアフガニスタン侵攻の中、モスクワオリンピック出場を辞退するという新冷戦時代であった。西側陣営としてのカラーを強め、アメリカに対して「同盟国」という言葉を初めて使用する。1980年(昭和55年)5月16日、社会党からのポーズであるはずだった内閣不信任決議案に対して、自民党内の反対派の動きのため可決され、それを受けて衆議院を解散させるという「ハプニング解散」も起こる(三日後の5月19日に解散)。

その後の総選挙の投票日が6月22日となるが、同日はくしくもベネチアサミット当日でもある。そんな選挙戦の中、選挙公示日である5月30日に大平は過労と不整脈のため緊急入院となる。6月12日朝六時前に心筋梗塞による心不全にて死去。享年70歳。現役総理の在職中の死去は48年ぶりであった。その後の選挙戦では党内の主流、反主流の別なく弔い合戦の様相となり、いわゆる「香典票」という同情票を多く得られたことで大勝となる。

コメントの際の口癖から「あーうー宰相」と呼ばれ、鈍重な印象から「讃岐の鈍牛」と呼ばれもしたが、「千五政界屈指の知性派」と言われるほど頭の回転も速く論理的にも優れており、かつ早口でもありユーモアまで交えることができる人物であった。「あーうー」の印象が強く、流行語ともなり子供も真似をしたほどである。朴訥で謙虚な人柄から、「おとーちゃん」と呼ばれ愛されていた(田中角栄は「おやじ」と呼ばれ愛されていた)。

墓所は多磨霊園のほか、郷里の豊浜町墓地公園にもある。また、同じく郷里の観音寺の元選挙事務所は大平正芳記念館となっていたが、2015年(平城27年)3月に老朽化により閉館となった。

多磨霊園の墓石には、自筆の文字が生き生きと書かれている。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0648+

また、墓域の左側には顕彰碑もある。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0649+

大平正芳先生は明治四十三年 香川県に生れ 東京商科大学に学び 大蔵省に奉職した後 政界に志し 内閣官房長官 外務 通産 大蔵の各大臣 自由民主党幹事長等の要職を歴任 昭和五十三年内閣総理大臣に就任した その業績は 日中国交の回復 首脳外交の推進 活力ある経済政策の展開など 多岐にわたつた 先生はよく内外の信頼に応え 人びとの幸せのため渾身の力を奮つたが 昭和五十五年六月十二日 現職内閣総理大臣として その職に殉じた 正二位大勲位に叙され その偉業は時と共に光彩を放つ 享年七十歳

どっしりとした印象のある洋型の墓石は、氏の人柄を思い起こさせてくれるようにも思われる。

著名人 有名人の墓 多磨霊園 大平正芳DSC_0648

なお、この右手には将来を嘱望されながらも若干26歳で早世した長男の大平正樹氏の墓石も並んでいる。

※東京都の霊園一覧ページはこちらをごらんください。

・著名人 有名人の墓 野口雨情(東京都 小平霊園)

著名人 有名人の墓 野口雨情

都営小平霊園 32区1列8

1882年(明治15年)5月29日生まれ、1945年(昭和20年)1月27日永眠。享年63歳。

著名人有名人の墓 小平霊園 野口雨情DSC_0564+

明治15年、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)の廻船問屋の長男「栄吉(本名)」として生まれる。この廻船問屋は楠木正季を遠祖とするという名家であった。

18歳、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、坪内逍遥の元で学ぶが一年で中退。詩の世界に没頭していく。詩を雑誌に投稿しだしたのもこのころから。

22歳の時に父の他界に伴い、実家に戻り家督を継ぎ妻帯する(親の決めていた高塩ヒロと政略結婚)。詩作は続け、「雨情」の号を使い始める。地元磯原の生活に嫌気がさし、樺太にわたって新規事業に取り組むも失敗。さらにこの時同行していた芸者に事業資金を持ち逃げされる。残金でリンゴを貨物列車一杯購入し東京で販売しようとするが、途中で腐ってしまったという。

東京に戻ったもののしばらくして北海道に渡り、小樽日報の記者となる。このとき石川啄木と同僚となる。小樽日報をやめたころに二番目の子供(娘)が生後一週間で亡くなり、この時つくられた歌が「シャボン玉」とも言われている。小樽日報もあわせ6カ所の新聞社に勤めるも、母の死去にともない実家に戻り先祖からの全資産を管理していくことを決意。植林活動や漁業組合の理事なども務める。などで十分に詩作ができず悶々とする時期を迎える。

32歳、持病(痔)の湯治に、いわき湯本温泉に滞在。宿(芸者置屋)の女将(小すみ・本名は明村まち)と深い仲となり三年半をいわきで過ごす。その間に妻ヒロと協議離婚をし、二児を引き取る。

36歳、明村まちと別れ、水戸にて別の別の女性(中里つる)と再婚する。この頃より詩作活動を本格化させる。

1925年、43歳のときに日本童謡集の選者となり、1935年53歳で日本民謡協会を再興する。

代表作には、十五夜お月さん、七つの子、赤い靴、青い眼の人形、シャボン玉、こがね虫、あの町この町、雨降りお月さん、証城寺の狸囃子、よいよい横町、土撞唄、等日本各地の多数の有名童謡がある。西條八十、北原白秋とあわせ童謡界の三大詩人と言われている。

戦時中の1945年(昭和20年)、宇都宮市にて疎開中に永眠。享年63歳。

著名人有名人の墓 小平霊園 野口雨情DSC_0563

都立小平霊園にある野口雨情の墓には、本名の野口栄吉の名前と、妻つるの名前が刻まれています。

波乱万丈で鋭意盛んな前半生と詩情ゆたかな詩作にふけった後半生の野口雨情。そのお墓は静か且つ存在感のある佇まいがありました。

※東京都の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

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