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記念碑・モニュメント」カテゴリーアーカイブ

・浦和の調神社の初詣と過去の石材施工事例

2016年1月4日 月曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

昨日の「・大宮氷川神社の初詣と「戦艦武蔵の碑」」の記事に続きまして、本日は浦和の調神社(つきじんじゃ)の初詣に行ってきました。

正式名称は「調神社」と書いて「つきじんじゃ」と読むのですが、地元の方々は昔から「つきのみやさま」と呼んでいますので、そのまま書き表すと「調の宮」、「調宮」というのが元々の名前なのではないかなと感じています。

ここ調神社に初詣に来たのには理由がありまして、普段なかなかじっくりと拝見することのできない「数十年前の石材施工事例」がここ調神社に残っているんです。

でもその前にまずは参拝をしましょう。境内の外まで初詣の行列です。元旦はもっとすごかったことでしょう。旧街道である中山道にずらりと行列がのびています。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0110

ここ調神社は鳥居のない神社として有名です。伊勢神宮への貢物(調物)の集積地としての宮であったため、出発の際に鳥居があると邪魔となってしまうので取り除かれたとか

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0089 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_01172016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0091 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0092

現在の社殿は小田原征伐の際に焼失したものを、江戸時代に権現造にて再建したものです。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0098 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0099

ちなみにそれ以前の旧本殿は、境内に稲荷社として保存されています。

「つき」にちなみで月待信仰ともなり、月なので随所にうさぎが見られます。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0086 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0087

ここでは狛犬のかわりに兎がお出迎えです。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0097 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0101

さて、初詣の参拝も終わりましたので、過去の施工事例を見学したいと思います。

それがこちら↓石材で作られた柵です。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例  日蓮上人駒繋ぎの欅ケヤキDSC_0109

実は、弊社会長の大塚順康の修業時代、田口石材さんにて整えた仕事なんです。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0082 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0084

調神社の外周の柵ですので、かなりの距離になりますが、数十年前の施工とはいえいまだにしっかりと組みあがっています。さすがに地盤の沈降などによるゆがみなどは距離のあるものですので出てきている部分もありますが、隣接する中山道や歩道には全く影響はでていないことが確認できました。おそらく50年以上前の仕事でしょう。

さてこの石柵で囲まれた部分の一番南側にこんな場所と木があります。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例DSC_0080

中州のようにとりのこされた(いや伐採されずに保存されたのでしょうか)島のようになっています。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例  日蓮上人駒繋ぎの欅ケヤキDSC_0108

実はここには、「日蓮上人駒つなぎの欅」があるんです。

2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例  日蓮上人駒繋ぎの欅ケヤキDSC_0103 2016年1月正月 埼玉県さいたま市の調神社(調宮 つきのみや)初詣と石材の施工例  日蓮上人駒繋ぎの欅ケヤキDSC_0104

流刑のために佐渡に向かう途中の日蓮上人がこの地に寄ったところ、難産で苦しむ女性がいたため馬をこの欅の木につないで祈願祈祷をしたところ、無事に男児を出産したというケヤキになります。

以上、初詣日記と織り交ぜて古い施工事例をご紹介いたしました。会長の大塚からの技術は今も継承しておりますので、弊社に石材のご連絡をいただける方はご安心いただければと思います。

 

・大宮氷川神社の初詣と「戦艦武蔵の碑」

2016年1月3日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介、ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

大宮氷川神社に行ってきました。今日は特に暖かく4月のような陽気でした。そして朝一番での参拝でしたので境内はまだまだすいていましたが、祈願をされる方々は朝からずらりと並んでいました。

2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0047 2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0044 2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0045 2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0048

境内のご神木、高い場所にある枝を見てみるとたいへん苔むしていてとても時間を感じさせられます。

穏やかな冬の澄んだ空気と静かな水面の神池は、鏡のようで絵のようでした。

2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0051

とっても綺麗でした。

2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0053 2016年1月正月 大宮氷川神社DSC_0055

さてそんな氷川神社、おみくじを引こうと三の鳥居の近くまで来たところで、なんと「戦艦武蔵の碑」を発見しました。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0061 2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0070

場所は、氷川神社の拝殿本殿に向かって三の鳥居をくぐると左手の社務所の手前に見えてきます。

それにしてもいつの間に石碑が建ったのでしょう。石材店の人間ですので、記念碑やモニュメントにも携わることがありますので、そういった意味でもとても惹かれるものがあります。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0062

戦艦武蔵の碑。荒々しくも力強く表面がとても美しい石材です。しかしなぜ海のない埼玉県の氷川神社に戦艦武蔵の碑が?と疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0065

戦艦武蔵

戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。

パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。

昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。

昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立  戦艦武蔵顕彰会

協賛団体 軍艦武蔵会 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)

※以上、石碑より引用しました。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0075

設立趣旨

連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。

当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。

平成27年10月24日

戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘

権宮司 東角井真臣 揮毫

※以上、こちらも石碑より引用しました。

昨年の10月24日に建立されたということで、まだ2ヶ月しかたっていませんでした。

戦艦武蔵と言えば、昨年海の底に眠る様子が発見され、その映像が世に大きく取り上げられました。話題性もありますので大きく注目を集めることと思います。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0076-

氷川神社に行かれましたら、戦艦武蔵の碑も是非ご確認してみてはいかがでしょう。

2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0078 2016年1月正月 大宮氷川神社 戦艦武蔵の碑DSC_0079

※過去の大宮氷川神社の記事はこちら

・2015年3月31日 大宮公園の夜桜の花見

・氷川三社に初詣 氷川女体神社

・氷川三社に初詣 中川神社

・氷川三社に初詣 氷川神社

・武蔵一宮 氷川神社

・墓じまいとは? (全国石製品協同組合による公式見解)

2015年12月9日 水曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

さてみなさんは昨今話題となっている「墓じまい」という言葉はご存知でしょうか。そして「墓じまい」と聞くとどのようなことを思い浮かべますか?「しまい」という言葉があるために「終わりにする」「なくす」というイメージを持たれている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

ところが本来の「墓じまい」にはもう少し一歩踏み込んだ意味合いを含んでいます。より多くの方にもう少し理解を深めてもらおうと、弊社大塚も加盟しております全国石製品協同組合(以下、全石協)にて、先月11月25日に「墓じまい」に関する公式見解の発表がなされました。

この公式見解によりますと、(以下、抜粋文章)・・・

 

◆「墓じまい」とは、(「墓じまい」の定義)
本来のお墓を移転して建てる(改葬)ための1つのプロセスです。
①既に建っているお墓の閉眼供養(魂抜き)した後、お骨を取り出す。②元のお墓を撤去し更地に戻す、そして、③新しい墓地にお墓を建てる(墓石を移動もしくは新規建立 )、④お骨を納め開眼供養をする。の一連の流れを改葬と言いますが、「墓じまい」とは、②「元のお墓を撤去し更地に戻す」ことだけを指し、改葬を行う一連のプロセスの1つです。

 

◆今、マスメディアで話題となっている誤解されがちな「墓じまい」について
「墓じまい」の定義の通り、「墓じまい」とは、元のお墓を撤去し更地に戻すという”改葬の中の一連のプロセスの流れの1つに過ぎません。決して、お墓を無くし、供養を放棄することではありません。
むしろ、自宅の近くの墓地で、墓参しやすい場所に移転し、よりよく安心してご供養を続けるための手段です。・・・

 

とあります。(抜粋文章、画像ともに全石協ニュースリリースより引用)

墓じまいとは、お墓をなくすこと、供養を終わりにすることではなく、改葬の中の一連のプロセスの流れの1つに過ぎない。

とてもわかりやすい話しかと思います。改葬とは、近年では遠くのお墓から近くにお墓を引っ越しさせたり、納骨堂や永代供養墓、公営霊園の樹木葬などに納めたり、複数のお墓を整理してまとめたりなど、各家ごとに実に多様なカタチが見られるようになってきています。ただ一点必ず言えることは、お墓(遺骨の納め先)がないと、誰もお参りや供養ができなくなってしまう、ということです。お墓や遺骨について考えるのは自分自身であっても、身の回りの方や親族、ご友人、そして子子孫孫にいたる後世の方々の「供養する権利」は残していきたいものではないでしょうか。全ての遺骨を散骨しお墓を処分した数年後にお孫さんから「うちのお墓はどこにあるの?」と質問され戸惑ってしまったという方もいらっしゃいます。遺骨は数十年かけてつくられるものではありません。お墓もただの記念碑・モニュメントではありません。遺骨はその人の遺伝子の集合体であり、先祖代々あってのものですので、何千年、何万年もかけて作られてきた印でもあります。無くすのは一瞬ですが、作るのには何千年も何万年もかかるもの(二度と作る事の出来ないもの)、それがお墓ではないでしょうか。

墓じまいを検討されている方がいらっしゃいましたら、急がずにじっくりとご検討、ご相談されることをお勧めいたします。

以下↓ニュースリリース全文になります。

 

経済産業省認可「全国石製品協同組合」は「墓じまい」に関する公式見解を発表いたしました。
近年マスメディアで話題になっている「墓じまい」に関する公式見解

経済産業省認可団体の、石材小売業界団体である「全国石製品協同組合」(本部:東京都港区、代表理事、太田明、以下 全石協)は、2015年11月16日に開催された全石協理事会において「墓じまい」に関する全石協としての見解を取りまとめ同組合の公式見解として決議いたしました。近年マスメディア等で話題となっている「墓じまい」ですが、これまで一定の定義づけがなされていなかったため、誤解を招く認識がなされていたことから、今回公式見解を発表する運びとなりました。
公式見解の詳細につきましては、本文の通り。

 

「墓じまい」に関する全国石製品協同組合の公式見解

◆「墓じまい」とは、(「墓じまい」の定義)
本来のお墓を移転して建てる(改葬)ための1つのプロセスです。
①既に建っているお墓の閉眼供養(魂抜き)した後、お骨を取り出す。②元のお墓を撤去し更地に戻す、そして、③新しい墓地にお墓を建てる(墓石を移動もしくは新規建立 )、④お骨を納め開眼供養をする。
の一連の流れを改葬と言いますが、「墓じまい」とは、②「元のお墓を撤去し更地に戻す」ことだけを指し、改葬を行う一連のプロセスの1つです。

 

◆今、マスメディアで話題となっている誤解されがちな「墓じまい」について
「墓じまい」の定義の通り、「墓じまい」とは、元のお墓を撤去し更地に戻すという”改葬の中の一連のプロセスの流れの1つに過ぎません。決して、お墓を無くし、供養を放棄することではありません。
むしろ、自宅の近くの墓地で、墓参しやすい場所に移転し、よりよく安心してご供養を続けるための手段です。
「墓じまい」という言葉が、興味を引く表現であることから、マスコミや消費者が「墓じまい」イコール“お墓を持たなくなる”もしくは、“日本人の供養心が薄れている”という誤解をしがちですが、むしろ、お墓を大切にしていきたい、ご供養を続けたい方々が、お墓の引越しのプロセスの1つとして、墓じまいをするケースが増えています。
近年、合葬墓・散骨などが、マスコミで話題を呼んでいるが、それをすることで、残された家族が、手を合わせる対象(ご供養)が無くなり、後悔する方々の声も多く聞かれます。
これはむしろ家族にとって自分達が入るお墓を失ってしまい将来、新たにお墓を探すことになります。つまり、その際には、経済的な部分も含め様々な負担を残された家族に掛ける結果になります。
お墓の管理・維持は、経済的にも一般的には少額な負担で済みます。お墓は、残された家族への負担を軽減するという意味でも、まさに継いでゆくべき祭祀財産なのです。

◆「墓じまい」を検討されている皆様へ

少子高齢化、大都市圏への生活拠点の集中から出身地との地縁が薄まることにより、今後、「墓じまい」をしてからお墓の引越しをする人が加速度的に増加すると考えられます。
従来、石材店は、お墓を建てることが主たる仕事でしたが、今後は、墓じまい、お墓の引越しまで対応できる石材店が、お客様にとって有用になると考えられます。全石協加盟石材店は、「墓じまい、お墓の引越し」に関するノウハウは、もちろんのこと全国の加盟店ネットワークを基にお客様へ安心のお墓の引越しを提供しています。
『ご自身で悩まず、ぜび一度、お墓の事と供養についてご家族で話し合ってみませんか。家族の絆を改めて感じ、再認識するとても良い機会になるのではないでしょうか。ぜひ、全国石製品協同組合へご相談ください。』

◆「全国石製品協同組合」(全石協)とは
全国石製品協同組合(全石協)は、全国47都道府県の石材会社及び同関連会社が結集し強力な組織化と連携のもと石材業界の指導的役割を担うとともに、消費者ニーズへの的確な対応と石材業界の健全な発展を目指す団体です。全国石製品協同組合では、日本人が大切にしてきた本来の“供養・埋葬のあり方”を取り戻し、次世代へも語り継ぎ、消費者に正確な情報をご提供、石材業界の健全な発展を目指してまいります。
【商号】 全国石製品協同組合(経済産業省認可 2012004情第5号)
【設立】 2012年11月22日
【所在地】東京都港区芝大門2丁目9番14号5階
【URL】公式ホームページ http://zenseki.or.jp/
いいお墓探し!お墓の引越しドットコム http://www.ohakanohikkoshi.com/

(参照元: http://zenseki.or.jp/news/2015/11/hakajimai_kenkai_20151125.shtml

 

※改葬、移転先のお墓(永代供養墓や樹木葬など含む)をお探しの方はこちらをご参照くださいませ。

※関東の霊園一覧ページはこちら

※寺院墓地一覧ページはこちら

※永代供養墓・樹木葬のページはこちら

※納骨堂のページはこちら

・小平霊園の樹木墓地と樹林墓地を見てきました

2015年11月9日 月曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、首都圏にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」になります。

今日は、東京都の小平霊園にあります樹林墓地と樹木墓地のご紹介になります。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0454 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0455

都営小平霊園を入ってすぐ、管理事務所のすぐ近くに樹木墓地と樹林墓地はあります。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0456+

入口を入ってすぐ、目の前に見えてくるのは樹木墓地です。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0458

芝生のうつくしいなだらかな丘に若木が植えられています。将来的には大きな樹木となるのでしょう。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0459+ 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0460+

野鳥がエサを探しに来たりしていました。

参拝広場から見た様子です。↓向かって右が樹木墓地、左が樹林墓地です。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0489

↓こちらは右側にある樹木墓地。中央に樹があり、芝生がとても綺麗です。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0490 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0495

↓そしてこちらが向かって左側の樹林墓地。樹木が点在しています。芝生でないようですね。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0493 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0483

広めのスペースである参拝広場は大きなパーゴラとベンチがあり、お参りの際もやったりと過ごせそうです。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0462

献花台はこんな感じ↓です。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0472

きっとお盆やお彼岸時にはたくさんのお花が並び、お線香も絶え間なく供されていることと思います。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0473 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0474 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0475 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0477

それぞれの墓地の縁は美しい石積みになっています。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0500 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0501

縁の石積みをよく見てみると、場所を示すプレートが設置されています。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0503 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0504

↓こちらは芝生の樹木墓地。おそらく遺骨を入れる入口かと思われます。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0505

↓こちらは樹林墓地。おなじく遺骨を入れる入口でしょう。だいぶ形状に違いがありますね。

小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0506 小平霊園の樹林墓地と樹木墓地DSC_0507

晴れた日にはとてものんびりとした空気の流れる小平霊園の樹木墓地と樹林墓地でした。

近年人気の墓地ですが、人気のために倍率もとても高くなっているようですね。

よろしければ、以前の記事「・小平霊園の合葬式墓地を見てきました」こちらもご覧くださいませ。

※永代供養墓特集のページを見る

※納骨堂特集のページを見る

 

・伊奈氏の館跡 土屋陣屋跡 永田家長屋門及び築地塀

2015年10月1日 木曜日 曇りのち雨

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

本日、埼玉県西区にあります「さいたまメモリアルパーク」の帰り道に、土屋陣屋跡である「永田家長屋門及び築地塀」を見に立ち寄ってみました。

場所はこちら↓分かりますでしょうか。正方形型に堀がめぐっています。実はこちら、伊奈町の名前の元となった伊奈氏の作った土屋陣屋なのです。埼玉県道57号さいたま鴻巣線、馬宮コミュニティセンター(馬宮図書館)からすぐ。プラザ地域からもすぐ近くの場所にあります。

現在は、さいたま市指定文化財(建造物)の「永田家長屋門及び築地塀」となっています。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3980

向かう途中、堀越しに綺麗な花とすすき、その向こうに築地塀と長屋門が見えてきます。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3970

時代劇にも出てきそうな立派な長屋門ですね。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3975

門の中には駕籠もありました。

長屋門の小窓からは、今にもまげを結った門番のお侍さんがこちらを窺ってきそうです。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3978

そしてさらには門の中から提燈を持った従者と馬に乗った代官様がゆったりと出てきそうです。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3976

案内板があります。読みやすく拡大してみます。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3976-

大宮市指定文化財(建造物)

永田家長屋門及び築地塀  平成11年4月1日指定

長屋門の建築規模は桁行き21.1メートル、梁間4.75メートル、棟高6.18メートル、面積100.51平方メートルと市内最大規模を誇ります。門の両端に接しているのが忍び返しの付いた築地塀です。

門扉と潜り戸は堅牢な開き扉で、同性の八双金具や乳房状の饅頭金具が付いています。また、右手には出格子が二つありますが、市内では希有な例です。

長屋門及び築地塀の正確な建築年代は判っておりませんが、凡そ江戸時代の後期と考えられます。

永田家の屋敷地は、江戸時代初期に関東郡代伊奈忠次が陣屋を設置した地で、家臣であった永田氏が拝領しました。長屋門及び築地塀は、周辺の景観によく融合し、かつての陣屋の雰囲気を今に伝えているばかりではなく、木造日本建築の美を併せ持つ貴重な建造物となっています。

平成13年3月  大宮市教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

伊奈氏というと、以前記事にしました「・埼玉県伊奈町 伊奈氏館跡に行ってきました①」や「・埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その①」の記事や、こちらの記事で伊奈町の願成寺にある伊奈熊蔵忠勝の墓を訪ねてみたりと、当ブログでもたびたび触れている江戸時代の武蔵小室藩の藩主であり、代々有力官僚、関東郡代を務めた伊奈氏です。

さいたま市指定文化財(建造物)永田家長屋門及び築地塀DSC_3973

伊奈氏より館を引き継いだ永田氏が、現在は「永田医院」さんとして史跡を守られています。

さてこちら、冒頭で「さいたまメモリアルパークに行った帰りにちょっと寄り道」と書きましたが、実は「やすらぎの杜」霊園からはもっとすぐ近く。直線距離で200~300メートル。歩いて5分ほどの場所にあります。

霊園のご見学、お墓参りの際にちょっとお散歩できる距離ですね。これからも貴重な文化財を守り次世代に残していっていただきたいと思いました。

※さいたまメモリアルパークの霊園情報ページはこちら。

※やすらぎの杜の霊園情報のページはこちら。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちら。

 

・馬蹄寺のモクコクと鈴木荘丹俳諧歌碑

2015年9月20日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今日からお彼岸です。みなさんはお彼岸にお墓参りはされますか?わたくしブログ担当のTは、彼岸を前に休日を使ってお墓参りしてきました。

さて今日の記事は、先日行きました上尾市平方にあります馬蹄寺さまにあります埼玉県指定天然記念物のモクコクと鈴木荘丹俳諧歌碑です。

埼玉県上尾市 馬蹄寺DSC_3329 2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3330 埼玉県上尾市 馬蹄寺DSC_3364

馬蹄寺さまの入口から山門を通り、本堂の手前に大きなモクコクの木があります。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3337

枝ぶりのよい、支えの柱がたくさんある大きな古木です。歴史のある樹木ですが、イキイキと生命力にあふれてますね。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3339

案内看板があります。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3341-

県指定天然記念物  馬蹄寺のモクコク  昭和7年3月31日

このモクコクの幹回りは約2.08メートル、樹高8メートルあり、県内でもこれだけの巨木はめずらしいといわれている。

つばき科の常緑高木で日本の南西部の産地に自生するほか、朝鮮半島南部・台湾・中国大陸・インドに分布し、大木ともなるが庭木としても用いられている。

材質は堅く紅色をなしていて床柱や細工物などに使われている。

開花期は6月から7月頃で白色の花をつける。樹齢650年頃と推定される。

昭和60年12月1日 埼玉県教育委員会 上尾市教育委員会 馬蹄寺

※以上、案内板より引用しました。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3361

樹齢推定650年ということで、歴史を感じさせる太く表情豊かな幹です。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3345 鈴木荘丹俳諧歌碑 上尾市指定有形文化財

石碑と石柱があります。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3356 鈴木荘丹俳諧歌碑 上尾市指定有形文化財 2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3359 鈴木荘丹俳諧歌碑 上尾市指定有形文化財

こちらが鈴木荘丹俳諧歌碑です。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3340- 鈴木荘丹俳諧歌碑 上尾市指定有形文化財

上尾市指定有形文化財 鈴木荘丹俳諧歌碑

上尾市大字平方2077番地 馬蹄寺 平成12年3月28日 指定

鈴木荘丹は享保17年(1732年)江戸の商家に生まれ、名は伊良、俳号は荘丹(そうたん)のほか、菜窓(さいそう)・荘郎(そうろう)・能静(のうせい)・石菖(せきしょう)なども用いました。荘丹は松尾芭蕉十哲の一人服部嵐雪を祖とする雪中庵三世の大島寥太の高弟で、送炭の著した書には、「蕉翁句解参考」「嵐雪発句撮解」、室井其角(きかく)の俳諧注釈である「晋子発句撮解」などが有名です。荘丹は、晩年、鈴谷村(与野)に居を構え川田谷村(現桶川市)在住の門人菜英のもとに度々往来していましたが、ここ平方の俳友、呑江(どんこう)宅にも良く立ち寄っていたようです。文化12年(1815年)2月14日同宅で亡くなっています。享年は84歳。墓は与野鈴谷(さいたま市)の妙行寺にあります。

鈴木荘丹俳諧歌碑は、ここ馬蹄寺で長らく所在不明でしたが、鐘楼付近で発見され、モクコク(県指定天然記念物)の樹下に置かれました。歌碑は、送炭が死去する前年の文化11年に建立され、正面に歌が一首、側面に紀念銘がそれぞれ刻まれています。

この歌碑は荘丹自筆と考えられ、平方における活動を示すものであり、歌題「安心(あんじん)」は、荘丹の信条で「俳諧に遊び、楽しむことも、衣食住をないがしろにしてはいけない」という意味です。江戸時代の上尾の文化を考える上で貴重な資料です。

平成13年6月30日  上尾市教育委員会

※以上、引用しました。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3356- 鈴木荘丹俳諧歌碑 上尾市指定有形文化財

安心

俳諧の奥ハ 楽し支(き)道奈(な)れ登(と) 踏堂(た)可へ帝(て)者(は)到ら連(れ)ぬ

奈里(なり)

右下に、八十三叟 菜中閒人

と確認できます。 俳諧の奥は楽しき道なれど、踏みたがえては到られぬなり。「俳諧に遊び、楽しむことも、衣食住をないがしろにしてはいけない」ということです。俳諧に限らず現代にも十分さまざまなことに当てはめられると思います。

それにしてもとても美しい彫刻文字ですね。

2015年 上尾市 馬蹄寺のモクコク 埼玉県指定天然記念物DSC_3338

県天然記念物のモクコクと鈴木荘丹の俳諧歌碑。歴史と文化の跡を今に残す馬蹄寺。おすすめのお寺さまです。

(以前の記事、・上尾市平方 馬蹄寺の徳本行者六字名号供養塔

※馬蹄寺さまの墓地情報のページはこちら。

 

お墓、墓石については、下記問い合わせまでお気軽にご相談・ご質問ください。お墓ディレクター有資格者(石産協)やお墓相談員(全優石)など専門の知識のある者が石匠位認定店(全石協)として丁寧にご対応させていただきます。

お問い合わせ番号 0120-36-1217(代表)

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・上尾市平方 馬蹄寺の徳本行者六字名号供養塔

2015年9月12日 土曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置く石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日上尾市平方にあります馬蹄寺さまに行ってきました。馬蹄寺さまは弊社大塚が日頃たいへんお世話になっているお寺さまになります。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3329

様々な文化財があるのですが、今日は「徳本行者六字名号供養塔」をご紹介いたします。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3330

上尾市指定有形民俗文化財になっています。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3331

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3334

上尾市指定有形民俗文化財 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔

上尾市大字平方2088 馬蹄寺 平成23年3月22日指定

徳本行者は、宝暦8(1758)年紀州日高郡に生まれ、天明4(1784)年に出家し、近畿・関東・相模・信濃・飛騨・越中・越後・加賀及び江戸等各地を巡り、昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。文化11(1814)年、小石川に一行院が再興された際、中興開山となった。一行院では、庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥の女中衆で帰依する者が多かったという。文政元(1818)年10月6日示寂、享年61歳であった。

その平易な念仏信仰は、広く受け入りられ各地に講が結ばれその筆跡の六字名号を刻んだ供養塔が各地に造立されている。

円頭角柱の正面に徳本独特の書体で「南無阿弥陀仏」と陰刻し、その下に「徳本(花押)」とある。

台座正面に「講中」とあることから、馬蹄寺を中心に結んだ念仏講により造立されたものと思われる。

紀年銘の文化14(1817)年11月は、『徳本行者全集』にみられる「文化14年11月11日、平方の里馬蹄寺におゐて斎を致し」の記事と符合する。

上尾市内に徳本行者の供養塔は三基残っており、それぞれの地域の振興の様相を知ることができる貴重な文化財といえる。

平成24年11月22日 上尾市教育委員会

※以上、案内板より引用しました。

拡大して見てみましょう。

2015年9月 馬蹄寺徳本行者六字名号供養塔DSC_3331-

たしかに、独特な書風の「南無阿弥陀仏」ですね。なめらかで優しみを感じられるように思えます。庶民や大奥の女中衆に人気だったというのもうなずけます。

石塔に刻まれた銘は1817年ですので、200年前に建立された供養塔なのですが、徳本行者の書体は今を生きるわたしたちにも温かさを感じさせてくれるものと感じました。

お近くにお寄りの際は、馬蹄寺さまの入口にありますので見学することができると思います。

そんな歴史的な文化財の生きている馬蹄寺さま。おすすめのお寺さまです。

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・著名人 有名人の墓 穴山梅雪公のお墓(静岡県 霊泉寺)

2015年8月2日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県に本社を置き、首都圏を中心に墓地と霊園をご紹介・ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日静岡県静岡市清水区にありますメモリアルガーデン清水に行きました際に、隣接する経営主体の霊泉寺さま境内にあります穴山梅雪公のお墓をお参りしてきました。(霊泉寺の記事はこちら

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1699 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1701

ご由緒書きの案内板があります。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1700

由緒

当山開基穴山梅雪公は甲州武田氏の一族で 母は武田信玄の姉 夫人は武田信玄の娘である。

天正三年(1575)八月から天正十年(1582)二月まで八年間 清水江尻の城主であった。

天正九年六月所領であったこの地に寺領を寄進して霊泉寺を創立して 翌十年六月、宇治田原に没した。

当山に所蔵する宝物は静岡県重要指定文化財として永残されている。

平成十二年八月

霊泉寺廿八世住職 穴山円照 謹立

※以上、引用しました。

 

穴山梅雪(ばいせつ)公は、穴山信君(のぶただ)という名前として武田一門州でもあり、武田二十四将の一人であり、武田信玄公の軍師という立場でもありました。正妻は武田信玄公娘の見性院。

武田家の遠江、駿河への侵攻に際して功績がありました。第一次侵攻の際には興津横山城にて籠城を。そしてその後は現JR清水駅近くにあった清水江尻城代となりました。

信玄公没後は、跡を継いだ武田勝頼(従妹であり、義弟でもある)とは意見が合わず対立し、長篠の合戦の際には戦線を離脱したりなどがあり、天正10年(1582年)2月に織田徳川の武田領への侵攻と武田家の滅亡に際しては、甲斐一国および武田宗家の拝領を条件に織田方に降りました。同年5月に織田信長へのお礼にと徳川家康とともに上洛し安土城で信長と会います。帰り道に堺見物をした翌6月2日に本能寺の変の知らせを受け、徳川家康と共に近畿からの脱出をはかりますが、宇治田原にて農民の一揆により命を落とすこととなります。

その後の穴山家(武田家)は、嫡子勝千代(武田信治)が継ぎますが、若くして亡くなってしまったため穴山武田家は断絶となります。

しかしながら、霊泉寺は代々受け継がれてきました。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1702 

石塔正面を拡大してみました。戒名の「霊泉寺殿古道賢集公大居士」の文字が確認できます。

周囲には、公のお墓を守るようにいくつもの石塔が並べられています。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1703 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1708 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1709

また公のお墓に並んで歴代住職のお墓や穴山家先祖菩提のお墓もありました。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1704 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1705 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1706 静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1707

ここからの眺めは最高です。

静岡県静岡市清水区興津井上町 霊泉寺 穴山梅雪公のお墓 メモリアルガーデン清水 霊園隣接DSC_1711

遠くは美保の松原。そして清水港清見のあたりの埠頭と、手前には興津川。一番手前に見える建物が霊泉寺の本堂と庫裏になります。

美保の松原を眺めて眠る。最高の墓所ですね。

※静岡県の霊園一覧ページはこちらをごらんください。

・埼玉県東松山市 足利基氏館跡

2015年7月24日 金曜日 曇り

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、首都圏にて霊園と墓地をご案内・ご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日の記事に引き続き、埼玉県東松山市岩殿にあります史跡の「足利基氏館跡」に行ってきましたので写真をご紹介します。

場所は先日記事にしました、弁天沼(鳴かずの池)阿弥陀堂の板石塔婆からすぐの場所です。岩殿観音の入り口にあたる場所で、大東文化大学やこども動物自然公園からもほど近い場所です。

道路沿いに案内の目印が立っています。

2015年6月 埼玉県東松山市岩殿 足利基氏館跡DSC_1468

細い道なので、車を停める場所はありません。弁天沼から歩いていきました。

だんだん畑の奥に案内板が見えます。

2015年6月 埼玉県東松山市岩殿 足利基氏館跡DSC_1469

こちら↓案内板です。

2015年6月 埼玉県東松山市岩殿 足利基氏館跡DSC_1470+

東松山市指定文化財

足利基氏の塁跡 昭和40年8月10日指定

足利基氏(あしかがもとうじ)は、鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将で、足利尊氏の次男として歴応三年(1340)に生まれました。

館の跡は、高坂台地西側の斜地に立地し、九十九川(つくもがわ)に向かって下り、南側が大きく開口しています。北と東西に土塁跡、東西に堀跡が残っています。館は堀を含めると東西180m、南北80m前後の規模とみられ、北面中央部の東寄りが山側に突出した形となっています。このすぐ東側で北と東の土塁の交点には、物見台とみられる高まりがつくられています。

東と西側の土塁の外には、現在、水田となった水堀が往時の面影を伝えています。南面は後世に大きく変化していますが、九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたとみられます。

『新編武蔵風土記稿』にも記載されていますが、この館跡は足利基氏が貞治二・正平一八年(1363)に反乱をおこした、芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)と、いわゆる「岩殿山合戦」を行った時に布陣した場所で、本陣がおかれた可能性が高いと思われます。

しかし、基氏は長期の滞在はせずに、すぐに下野国に陣を進めています。そのためこの館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を陣地として利用したものと思われます。

平成15年3月 東松山市教育委員会

※以上、案内板より引用。

この案内板のある少し先に物見台があったようですね。また、土塁や堀跡が弁天沼や阿弥陀堂の板石塔婆のすぐ近くまで続いていたようです。

2015年6月 埼玉県東松山市岩殿 足利基氏館跡DSC_1471+ 

案内板の建つ場所は現在だんだん畑となっていますが、ここも堀跡だった場所なのでしょう。

2015年6月 埼玉県東松山市岩殿 足利基氏館跡DSC_1472

また歴史を感じられる場所を訪れましたら記事にしてみます。

さて場所は先述のとおり岩殿観音の近くにあり、大東文化大学やこども動物自然公園、物見山もすぐ近くです。東松山市の高坂から鳩山町に向かう途中にあり、鳩山町の霊園サンヒルズ・メモリアルガーデンも遠くありません。ご見学の途中にお散歩するのにちょうどよい文化エリアです。

※東松山市の霊園 森林公園昭和浄苑の墓地情報のページはこちら。

※鳩山町の霊園 サンヒルズメモリアルガーデンの墓地情報のページはこちら。
※その他の墓地を探してみる。
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・東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆

2015年7月21日 火曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置く石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

本日の記事も歴史を重ねた石塔ということで、埼玉県東松山市の岩殿にあります「阿弥陀堂の板石塔婆」の訪問記事になります。

場所は東松山市の岩殿観音、大東文化大学、こども動物自然公園からほど近い場所になり、先日記事にしました「・埼玉県東松山市岩殿の弁天沼(鳴かずの池)」のお向かいにあたります。ちょうど岩殿観音への参道に続く道沿いでもあります。

 20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1466

こちらは元々阿弥陀堂があった場所で、道の北側に墓地が丘の斜面に広がっています。

案内板があります。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1448-

阿弥陀堂の板石塔婆

市指定有形文化財(昭和40年8月10日指定)

板石塔婆(以下板碑)の多くは、亡くなった人の死後の世界での幸福や安らかに死を迎えられることを願って建てられたものです。鎌倉時代中頃から南北朝時代を経て江戸時代の初めの頃まで、全国各地で盛んに建てられています。この時代に多くの板碑が建てられた理由の一つに、貴族社会から武士の時代となり、世の中の争乱による苦しみや恐れにたいして、仏に心の救いをもとめたためと考えられています。板碑に刻まれた銘文は、文字資料の少ない時代の様子を知る手掛りとなるもので、貴重な文化財です。

後方の墓地の中腹に建っているひときわ大きな板碑が「阿弥陀堂の板石塔婆」です。「鳴かずの池」ほとりに建つ岩殿会館は、かつて阿弥陀堂があった場所と言われており、このことから「阿弥陀堂の板石塔婆」と呼ばれています。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1449-

この板碑は、応安元年(1368年)明超上人が中心となって、同門の五十余名の僧侶と共に、真言密教の布教を願って建てられた板碑で、このように多くの人によって建てられた板碑を結衆板碑(けちじゅういたび)といいます。

高さ260㎝を測り、市内では二番目の大きさの板碑です。蓮座の上には胎蔵界(たいぞうかい)大日如来の種子(しゅじ)、下には五字一句、四区からなる偈文(げもん)が刻まれています。中央には紀年銘と願主、その右には三列、左には二列の僧侶の名が十段まで確認できます。左端にも偈文が刻まれています。

この大きな板碑から、当時の岩殿山の繁栄と信仰の高まりを感じることのできる板碑といえます。

平成25年3月 東松山市教育委員会

※以上、案内板より引用。

↓中央に見えているのが板石塔婆です。斜面の中腹にあります。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1450

近づいて見ますと、かなり大きな石塔だということがわかります。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1451 20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1452

さきほどの案内板にあった図と比較してみましょう。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1453 20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1449-

700年前のものとは思えないほどに、刻まれた文字がしっかりと判読できます。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1454 20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1455

足元を見ると、小さな板碑や板碑であってであろう欠片となった石などが敷かれていました。

20150608 東松山市岩殿 阿弥陀堂の板石塔婆DSC_1456

さて場所は先述のとおり岩殿観音の近くにあり、大東文化大学やこども動物自然公園、物見山もすぐ近くです。東松山市の高坂から鳩山町に向かう途中にあり、鳩山町の霊園サンヒルズ・メモリアルガーデンも遠くありません。ご見学の途中にお散歩するのにちょうどよい文化エリアです。

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