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霊園とお墓のはなし

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月別アーカイブ: 2014年11月

・さいたま市岩槻の「時の鐘」

2014年11月30日 日曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓作りのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、いわつき聖地霊園のすぐ近くにあります「時の鐘」を見てきました。大通り沿いにはなく、路地を入ったところに鎮座していました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5926

道標と案内板が目印です。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5927 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5929

案内板にはこのように書かれていました。

岩槻市指定文化財 時の鐘

指定年月日 昭和33年2月21日
指定の種類 有形文化財(工芸品)
所有者 岩槻市

岩槻城下の時の鐘は、寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。50年後の享保5年(1720年)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は1日3回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、1日12回撞かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿』他)。

鐘楼は、嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っています。

文化財を大切に 岩槻市教育委員会

以上、案内板からの引用でした。現在の鐘はつくられてから300年ほども経つのですね~。歴史を感じます。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5930

岩槻八景「城口晩鐘より」の図絵がありました。ランドマークとして機能していたことがわかります。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5931 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5948

夕方に行ったためか、写真が暗くなってしまいましたが、巨大ではないものの存在感のある鐘楼と、その中にある鐘が夕方のためかとても印象的に感じられました。鐘楼の向かい側にある銀杏の大きな木とあわせて独特の雰囲気があります。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5932 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5933 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5934 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5950

鐘の音は聞くことができませんでしたが、重厚で趣のある音色を聞くことができるのでしょうね。

石碑があり、「岩槻城墟碑」と刻まれているのがわかりました。城墟碑とありますのでそんなに古い石碑ではありませんが、十分に歴史を感じさせられる佇まいのある石碑です。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5935 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5936

案内板と案内地図もありました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5937 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5938

城下町岩槻

鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる幹線道が元荒川(当時は荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。奥大道は鎌倉街道の一つで、関東の政治の中心・鎌倉から北関東・東北地方方面へと通じる街道です。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。

15世紀以降、戦国の動乱が恒常化すると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、岩槻城を中心とする都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献資料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構(おおがまえ)と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化し、岩槻城主の領域支配の核であり象徴でもある城下町が確立しました。

江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、岩槻城大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町家(商工業ゾーン)が配置されました。また、旧来の街道は将軍の日光参詣路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。

武家地内は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生垣や板塀で区画された広壮な武家住宅が形成されました。大構の出入り口と、武家地・町家の出入り口は口(くち)と呼ばれ、門・木戸が設けられていました。城下町に由来する文化財の一つ、時の鐘は、寛文11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、そうした口の一つ、渋江口に設置したものです。

町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、さまざまな業種の商家などが通りに面して店を構えていました。町家の商家は岩槻城主や家臣の需要にこたえるばかりではなく、周辺農村に必要物資を提供する役割も果たしていました。町場の中心である市宿町(いちじゅくまち)では、戦国時代以来の六斎市(ろくさいいち)(毎月6回開かれる定期市。市宿では1と6の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などでにぎわいました。

以上、案内板より本文を引用しました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5939-

丁度この鐘のある場所が大手門から町家エリアに至る交差点になっていて「渋江口」だったということが地図からわかりました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5947

案内板には↓のような絵図もありました。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5940

日光御成道道中絵図に見る城下町の町並み

江戸時代後期の道中絵図に描かれた久保宿町と市宿町。町境の木戸で区画された街道沿いに商家が軒を連ね、その手前には大構、奥には岩槻城が描き込まれており、城下町岩槻の景観が手にとるようにわかります。また、市宿町の市神、久保宿町の本陣・一里塚など、市や日光御成道に由来する要素も見て取ることができます。

原資料・・・「日光道中絵図」(独立行政法人国立公文書館内閣文庫所蔵)

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5946 さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5945

昔と今とではかなり町のカタチが変わってしまいましたが、たしかに存在した記録としてさまざまな文化財が町のなかに残っています。町の成り立ちや歴史をたまには振り返ってみてもいいのかもしれませんね。

さいたま市岩槻の「時の鐘」 岩槻城DSCN5951

ところで、弊社はお墓をご案内している石材店です。岩槻の街なかにあります「いわつき聖地霊園」はアクセスもよく好評の霊園になっています。

ご興味ありましたら、こちらのページもご覧ください→いわつき聖地霊園の墓地情報のページ

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・お芋ほりに行きました。

2014年11月29日 土曜日 曇りのち雨

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今日は、大塚本社のNさんの美味しそうな記事と写真になります。以下本文↓

 

お芋ほりに行きました。

どの位ぶりでしょう・・・小学生のとき以来でしょうか?

 

広い畑のひと畝が我が家の分です。他の畝はほぼお芋ほりが終わっています。

お芋ほりに行きました。いもほり①

最初スコップでざっくりと土を返し、小さなスコップや手で掘っていきます。

お芋ほりに行きました。いもほり②

土の中から赤紫色のお芋が顔を出します。

途中で折れないように慎重に・・・

お芋ほりに行きました。いもほり③ お芋ほりに行きました。いもほり④

大きなお芋が芋づる式にザクザク・・・

お芋ほりに行きました。いもほり⑤ お芋ほりに行きました。いもほり⑥

お芋ほりに行きました。いもほり⑦ 

大収穫です!段ボール2箱分になりました。

お芋ほりに行きました。いもほり⑧

お芋は天日に干すと甘~くなるそうです。

お芋ほりに行きました。いもほり⑨

さつまいもは健康に良いお野菜です。

食物繊維が豊富なので、便秘によく効きます。出来るだけ皮ごと食べた方が効果的と言われます。

 

カロチンやビタミンCも多く含まれていますので、美容効果も期待できます。

ビタミンCは、メラニン色素の沈着を抑えて、シミやそばかすを防いでくれます。美肌効果ですね。また、免疫力を高めて風邪の予防にもよいと言われています。

 

調理法は、焼くも煮るも、揚げるもよし。お菓子なども美味しいです。

甘くてホクホク~たのしみです♪

 

↑以上、本文でした。

お聞きしたところ、芋ほりの場所は伊奈町役場の近くとのこと。伊奈町は弊社大塚のある上尾からもすぐ近くですし、弊社が日頃お世話になっておりますお寺さまが多くある地域でもあります。伊奈町での墓所をお探しの方はお気軽にお問い合わせください。

 

・2015年版、大塚カレンダー出来上がりました

2014年11月28日 金曜日 曇り

こんにちは。東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

さてこのたび、弊社にて毎年作っておりますカレンダー三種類の、2015年版が出来上がりました。

2015カレンダー出来上がりました1417155664354

カレンダーは三種類あり、スケジュール記入型のものと、四季の庭園をきれいに印刷してあるものと、日めくり暦のものとがあります。

2015カレンダー出来上がりました1417155672711

スケジュール記入タイプと、庭園写真のカレンダーは↑こんな感じです。

そして、日めくり暦はなかなか最近ではあまり目に触れなくなってきておりますが弊社では毎年ご用意しております。日めくりだけあって、厚さもかなりあります。365日毎日分ありますので、365枚以上の厚みということですね。

2015カレンダー出来上がりました1417155680178

今年ももうすぐ師走となります。2015年、平成27年の用意をする時期となってきました。年末というと大掃除や忘年会、そしてクリスマスなどもありとても大忙しの時期。一年の締めくくりとしてお墓参りをするよ、という方も少なくないのでは?(逆に、お正月にお墓参りをするという方もたくさんいらっしゃると思います)。いずれにせよ、もし可能であれば一年の締めくくりの年末や年明けのタイミングでのお墓参りも気持ちを一新させてくれますし、故人やご先祖様の供養にもなって気持ちも晴れ晴れとすると思います。

さて、そんな一年の締めくくりのこの時期、みなさんはもうカレンダーはご準備できましたでしょうか?まだでしたらお早目のご準備をお勧めいたします。

 

 

・埼玉県伊奈町 伊奈氏館跡に行ってきました②

2014年11月27日 木曜日

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて墓地と霊園をご案内し墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日の記事「・埼玉県伊奈町 伊奈氏館跡に行ってきました①」の続きになります。

伊奈氏館跡地図 伊奈氏館跡地図2

グーグル地図の空撮と通常の地図です。前回①の記事では、館跡の表門跡(右下あたり)から中央あたりに進んだところの二の丸まで書きました。

二の丸の続きからです。

伊奈氏館跡DSC_0117_ 伊奈氏館跡DSC_0118_

開けている二の丸のあたりは、土塁の跡も残っています。高さ1メートル前後の土塁が四方を囲うようにのこっており、中央部に高さ2mほどの土塁が門のように残っているのがわかりました。築城時はもっと高い土塁だったことでしょう。

伊奈氏館跡DSC_0119_ 伊奈氏館跡DSC_0120_

二の丸の外周の堀を見ることができました。高さ3mくらいでしょうか。

伊奈氏館跡DSC_0122_ 伊奈氏館跡DSC_0123_

再び二の丸にもどり、1mほどの外周土塁の上に立ってみます。写真でわかりにくいかもしれませんが、土塁なのです。南側を見てみると、上尾鷹の台高校の方向が見えました。

伊奈氏館跡DSC_0124_ 伊奈氏館跡DSC_0125_

さて、裏門跡に向かって進んでみましょう。この道沿いの土塁もなかなか保存状態がよく貴重な土塁をよく観察することができます。

伊奈氏館跡DSC_0126_ 伊奈氏館跡DSC_0128_

この道は、いわゆる城内の道なので、まっすぐにはつくられていません。連続してクランクの状態が続いています。

伊奈氏館跡DSC_0129_ 伊奈氏館跡DSC_0130_ 伊奈氏館跡DSC_0213_

ふる里歩道の案内板が誘導してくれます。

伊奈氏館跡DSC_0131_

途中にみられる畑のなかの柿の木、まさに今が旬!という実ごろを迎えていました。

伊奈氏館跡DSC_0132_

そうこう進むうちに道が下り坂になってきました。木がたくさん茂っていてわかりにくいかもしれませんが、ここにも大きな空堀がありました。外周の堀のうちの一つかと思われます。

伊奈氏館跡DSC_0134_

地面が完全に大きく下り坂になっていますが、道路は新幹線の高架の向こう側に橋になって続いています。実は、この新幹線の高架の向こう側にはニューシャトルの車両基地があるので、いつかそれも記事にしたいと考え中です。

伊奈氏館跡DSC_0133_ 伊奈氏館跡DSC_0135_

橋の下にたどり着きました。新幹線の高架の足元です。

伊奈氏館跡DSC_0136_ 伊奈氏館跡DSC_0137_

こちらが裏門跡になります。館跡を縦断できたかっこうになります。

伊奈氏館跡DSC_0138_

案内板があります。

伊奈氏館跡DSC_0139_ 伊奈氏館跡DSC_0140_

埼玉県指定史跡 伊奈氏館跡

天正18(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。寛永6(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっていました。

屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時をしのばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。

「裏門跡」伝承地と「障子堀(しょうじぼり)」

ここは、伊奈氏屋敷跡の「裏門跡」と伝えられていることろです。近年の発掘調査によって、堀を折り曲げて、「虎口(こぐち)」(出入口)をつくっていたことがわかりました。公園内の縁石の部分が堀の位置を示しています。発掘された堀は、幅が約5m、深さは2mあり、堀の中には障子の桟のような仕切り(畝)が作られているので「障子堀」と呼ばれています。畝の高さは約1.5mありました。「障子堀」は、武者が堀を越えたり、堀の中を移動したりすることが難しいように工夫されたもので、戦国時代の築城技術が良くあらわれています。

史跡指定地のほとんどが民有地です。見学に当たっては、地元の方々に迷惑をかけないようにお願いします。

以上、文章を引用しました。

伊奈氏館跡DSC_0141_

↑こちらの空撮写真でいうと、一番上の新幹線に近いあたりがここ裏門跡の場所になります。下側(表門側)から上側(裏門側)に縦断して通り抜けてきました。

伊奈氏館跡DSC_0142_

ここに障子堀が発見されました。

伊奈氏館跡DSC_0144_

障子堀と言えば、「堀障子」という名前で岩槻城の遺構からも発見されています。(岩槻城の堀障子についての記事はこちら「・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました①」)

伊奈氏館跡DSC_0145_

↑この空地の下には障子堀が埋め戻されて保存されてます。戦国時代と現代が交差しているように見えます。

ぐるりとスタートラインに戻ってみます。

伊奈氏館跡DSC_0220_

最初は気が付かなかったのですが、よく見てみると二の丸の高い方の土塁が丸い山のように頭をだしているのがわかりました。

場所はここ↓。一度訪問してみないと決してわかるものではありませんね(^_^;)

伊奈氏館跡DSC_0097_

他の城跡関係の記事はこちら

 

さて弊社はお墓をご案内している石材店です。

ここ伊奈氏館跡の場所は、弊社も以前ご案内をしておりました霊園の「みどりの森」や「ほたるの里」からも遠くありません。また、お寺では願成寺さまが一番近くにあり、そのほか相頓寺さま、楞厳寺さまや法光寺さまもすぐ近くになります。

お墓をお探しの場合や、墓地のリフォームや修理などのご相談がありましたらお気軽にお問い合わせくださいませ。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで

2014年11月26日

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて墓地と霊園をご案内し墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日、桶川霊園に行ってみたところ、大きな鳥の足跡?を見かけました。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで 足跡と白い糞DSCN6141 アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで 足跡と白い糞DSCN6142

この足跡、結構大きく感じられます。長さは10㎝くらいはありそうです。場所は、桶川霊園のすぐ近くで、桶川市環境センターの目の前の橋のすぐ下の砂州で見つけました。赤堀川です。綾瀬川の起点がこの近くになります。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6132

この橋のたもとには、↓こんな供養塔もありました。雑草が刈られたため只今はよく確認できます。供養塔があるということは、ずいぶん古くからある川なのですね~。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで 供養塔DSCN6133 アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで 供養塔DSCN6134

ちなみにこの供養塔、「養」の字が羊へんにつくりが良というカタチになってます。ちなみのこの供養塔のあたりからは桶川霊園が↓こんな感じで見えます。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6140

さて、鳥はどこにいるのでしょう?と、ちょっと探しに行ってみました。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6143

すぐに発見しました。拡大してみます。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6144

さらに拡大。立派な鷺(アオサギ)ですね~。こちらの様子をうかがっています。綺麗に撮影できませんでしたが、羽を広げると2メートル近くあるのでは?というくらいの大きさでした。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6145

鴨もいます。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くで 鴨DSCN6147

おや?アオサギが何かに気が付いたようです。首の向きを反対側に変えて何かを見ています。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6151 アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6152

右手から、仲間のアオサギが飛んできました。

アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6153 アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6154 アオサギ?発見!桶川霊園のすぐ近くでDSCN6155

このように自然がいっぱい残っている桶川霊園。時にはキジの鳴き声や姿も見ることができるとか。

桶川霊園にご興味のある方はお気軽にご見学いただいても大丈夫ですし、お問い合わせいただいても大丈夫です。お気軽にどうぞ。

 

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・埼玉県伊奈町 伊奈氏館跡に行ってきました①

2014年11月25日 火曜日

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて墓地と霊園をご案内し墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。

大塚本社は埼玉県上尾市にあるのですが、その上尾市のお隣にあります伊奈町の「伊奈氏館跡」に行ってきました。

伊奈氏については「・埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その①」や「・埼玉県北足立郡伊奈町 願成寺さま本堂が新しくなりました」の記事等でたびたび取り上げていますが、今回は伊奈町にある館跡です。

場所は、伊奈町南部にあり、ニューシャトルの丸山駅の横、上尾鷹の台高校(旧上尾沼南高校)や県立がんセンターからも遠くありません。東北新幹線と上越新幹線がY字に分かれる辺りになります。弊社も以前ご案内をしておりました霊園の「みどりの森」や「ほたるの里」からも遠くありません。また、お寺では願成寺さまが一番近くにあり、そのほか相頓寺さま、楞厳寺さまや法光寺さまもすぐ近くになります。

伊奈氏館跡地図 伊奈氏館跡地図2

グーグル地図の空撮と通常の地図です。位置はどちらも同じ位置です。中央辺りの森が囲んでいるエリアが旧館跡です。今回は↑地図の右下側から左上に通過してみました。館跡ではありますが、史跡としての施設などはありません。通過して昔を偲ぶばかりです。

「館跡」というと、あまりコワモテな印象を抱かないかもしれませんが、要するに江戸時代に関東郡代の伊奈氏のために作られた軍事拠点の城です。関東一円を納めるための警察署のようなものです。一国一城令がありますので「城」という名前がついていないだけで、機能は全く同じと思ってよいと思います。

伊奈氏館跡DSC_0097_

南側の上尾鷹の台高校のあたりから見た様子です。左側に新幹線の高架が見えます。

原市沼川が流れています。丁度草刈りがなされており、とてものどかな田園風景です。

伊奈氏館跡DSC_0099_ 伊奈氏館跡DSC_0098_ 伊奈氏館跡DSC_0219_

入口?に到着しました。

伊奈氏館跡DSC_0102_

こちらのカーブミラーの右側、暗くてわかりにくいのですが、実は堀が少しだけ残っています。

伊奈氏館跡DSC_0103_ 伊奈氏館跡DSC_0218_

反対側に案内板がありました。

伊奈氏館跡DSC_0104_ 伊奈氏館跡DSC_0105_ 伊奈氏館跡DSC_0106_ 

埼玉県指定史跡 伊奈氏館跡

ここは、代官頭伊奈忠次が築いた屋敷跡です。伊奈氏は信州伊那郡(今の長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に松平広忠(徳川家康の父)に仕え、三河国小島(今の愛知県西尾市)の城主となりました。

忠次は善政をしき、特に豊臣秀吉の小田原攻めには、主君徳川家康の命で兵糧の輸送、荒廃した伊豆国(今の静岡県)の農村復旧などにあたり功績を挙げました。

天正18(1590)年、徳川家康が関東へ入国した時、忠次はこれまでの功績によって、三河国小島の旧領と武蔵国小室・鴻巣領1万3千石(1万石とも言われている)を与えられました。代官頭となった忠次は、中世以来城郭として使われてきたこの地(小室丸ノ内)に陣屋を構えて、関八州(今の関東地方)の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、新田開発、中山道その他の宿駅の整備、備前堤・川島大囲堤の築堤などに大いに活躍しました。さらに江戸幕府成立後は、関東及び東海道筋の支配にも参画するようになりました。忠次および長男忠政の死後は、次男忠治が元和4(1618)年に築いた赤山陣屋(今の川口市)に関東支配の拠点が移り、この地は忠政の次男忠隆系の旗本伊奈氏の屋敷となりました。

屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時をしのばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。

以上、案内板より引用しました。なお、赤山陣屋については、こちらの記事「・埼玉県川口市 赤山城(赤山陣屋)に行ってきました その①」もご覧ください。

伊奈氏館跡DSC_0107_

↑現在地によると、ここは表門のあったあたりになるようです。それでは左上方向(西北方向)にある裏門跡に向かって進んでみましょう。

伊奈氏館跡DSC_0110_ 伊奈氏館跡DSC_0111_

赤茶色の縁石が堀の跡ということですが、この縁石がそうなのかもしれません。そしてこの道は「ふる里歩道」だそうです。裏門跡の方向に進んでいきます。

少し進みますと、ひらけた場所にでました。案内板と石碑があります。

伊奈氏館跡DSC_0112_ 伊奈氏館跡DSC_0214_

案内板はだいぶ古くなっているようで、左側に地図が書かれているのですが、陽の光にやられており新幹線くらいしか判別できなくなっております。

伊奈氏館跡DSC_0114_ 伊奈氏館跡DSC_0113_

埼玉県指定史跡 伊奈氏館跡

天正18(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。寛永6(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっていました。

屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時をしのばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。

平成4年10月
埼玉県教育委員会
伊奈町教育委員会

以上、案内板より引用しました。

伊奈氏館跡DSC_0216_

↑こちらは案内板の横に立つ石碑です。「伊奈氏屋敷址碑」と刻まれています。

ここは二の丸にあたるようです。どうりで少し高くなっているわけです。

伊奈氏館跡DSC_0115_ 伊奈氏館跡DSC_0116_

二の丸の様子については後半の②の記事に続きます。

他の城跡関係の記事はこちら

 

・「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました

2014年11月24日 月曜日 曇り

こんにちは。霊園と墓地をご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

今日の記事は、大塚本社のSHさんの記事です。以下本文↓

 

先日、趣味の一環で「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像1

日本酒造組合の理事さんを講師に招き、醸造や蒸留の違い、常圧・減圧蒸留があることや、原材料、麹の種類などを説明して頂きました。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像2

テーブルには、透明のプラスティックのコップが沢山並んでいます。

途中、蒸留方法の違う焼酎の飲み比べ、利き酒なども交えて説明を受けました。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像3

最後に焼酎に合う料理をランチボックス風に出して頂きました。

クッキングスタジオとコラボ?してるみたいです。

レシピも頂きました。

ほんの一部ですが、「すき焼きスパニッシュオムレツ」と「鶏肉のゆずこしょうチーズカナッペ」です。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像4

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像5

帰りにお土産として小瓶の焼酎を頂きました。

お土産セットの中にこんな冊子もありまして、女性にもっと焼酎を飲んでもらいたいという印象をうけました。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像6

会場が有楽町でしたので、帰りはブラブラと東京駅に向かって歩きました。

途中、丸の内仲通りのイルミネーションが綺麗でした。

スマートホンで撮影するのは難しいですね。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像7 丸の内仲通りイルミネーション

最後に丸ビルで「アナと雪の女王」をイメージしたツリーも見ながらほろ酔い気分で帰宅しました。

「本格焼酎&泡盛 セミナー」に参加してきました画像8 丸の内 アナと雪の女王 イルミネーション

セミナーには仕事の後に参加しましたが、十分に満喫できました。

また参加してみようと思います。

※東京都の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

・2014秋の信州善光寺

2014年11月23日 日曜日 晴れ

こんばんは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。

先日の記事(・20141030 長野県上田城跡公園の紅葉・20141030 長野県懐古園(小諸城跡)の紅葉・長野県上田市 北向観音の紅葉)と同日の写真をご紹介します。

 

長野県長野市にあります善光寺です。日本最古の仏像といわれている「一光三尊阿弥陀如来」さまがご本尊です。それでは善光寺を見てみましょう。

仁王門です。現在のものは大正七年(1918年)に再建されたものなのですが、善光寺の山号「定額山」と書かれた額が確認できます。

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仁王様の迫力に圧倒されます。あ、足の親指が浮いています!

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山門(三門)が見えてきました。寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りとなっています。重要文化財の指定をうけています。

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歴史を感じさせる佇まいと重厚感でいっぱいです。

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本堂が見えてきました。

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本堂は創建以来、十数度と焼失してきており、その都度民衆によって再建なされてきたという歴史があります。創建は642年に信濃国司となった本田善光が都からここ信州にご本尊をお連れしたのがきっかけとなり、644年に勅願にて伽藍が造営されました。1400年近い昔の話です。

本堂から山門を見た様子です。

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わが国最古の仏様をお祀りしている古今無双の霊場で、本堂・山門・経蔵等すべて国の宝です。

迷子郵便供養塔がありました。配達不能になった「迷子郵便」を供養する碑とのこと。

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善光寺も紅葉に包まれていました(10月25日撮影)

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多くの方の信奉をあつめている善光寺。時はうつり、建物や構造物が変わっていっても「供養の心」や「手を合わせる」という人間の営みは変わらないようです。

弊社の取り扱っている「お墓」も同じように、時がうつってもお墓のカタチが変わっても、供養の心と先祖と故人を思って手を合わせる営みは変化せずに後世に生き続ける文化であってほしいと感じました。

 

 

 

・これからお墓をつくる方へ⑥ [お墓の構造と付属品] 2

これからお墓をつくる方へ⑥ [お墓の構造と付属品] 2

(全優石「これからお墓をつくる方へ」より抜粋)

前回の記事 これからお墓をつくる方へ⑤ [お墓の構造と付属品] 1

 

Part2 お墓の種類と付属品

 

[お墓の構造と付属品]

お墓の構造

 

⑤灯ろう

お墓で使用される灯ろうはいわゆる庭灯ろうと区別され、墓前灯ろうと呼ばれます。実際には火をともすことはありませんが、古来より献灯は仏の供養のために良いこととされていますので、できれば設置したい付属品の一つです。

展示場写真4 灯篭 展示場写真3 灯篭

 

⑥お地蔵様

お地蔵様は古くから子供の友達でした。村々の辻に立って、入ってくる悪いやまいや禍を除いて子供をまもるものとされてきました。そんなお地蔵様を墓地の中に建てるのは、主として水子になった子供を想う親の温かい気持ちを表現します。女の子の場合にはかんのんさまも良いでしょう。

お地蔵様 展示場 DSC_2345- お地蔵様

 

⑦五輪塔

遠い御先祖をまつるために五輪塔が建てられることが多いようです。五輪塔とは、五解脱輪塔のことで、略して五輪塔と呼んでいます。霊魂が解脱し、成仏する姿を形にしたものと言われます。上から五大元素の空風火水地をきざみ祀ります。由緒ある家系、家柄のお墓にはぜひ加えたい様式の一つです。

五輪塔 展示場DSC_2353- 五輪塔 展示場DSC_2351-

 

⑧その他の付属品

・塔婆立て

・ベンチ

・手鉢

・花立て、香炉と敷石

・名刺受

・先祖供養塔

・敷石と玉砂利

 

(⇒これからお墓をつくる方へ⑦ [墓石の種類]へ続く)

これからお墓を作る方へ 記事の一覧)

・さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」

2014年11月21日金曜日 晴れ

こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のみならず東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事を行っております墓石石材店の大塚ブログです。

先日、さいたま市見沼区にあります「さいたま市営霊園 思い出の里」に向かう途中のことですが、藁でできた家のようなものに遭遇しました。

2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」DSCN5860

遠くから見たところ、どうやら藁でできているようですが、はじめて拝見しました。

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見沼代用水東縁沿いを、さいたま市営霊園 思い出の里に向かって進んでいるときに見かけました。場所は、さぎ山記念公園、見沼自然公園の近くです。なお、見沼代用水には鴨が何羽もおり、のどかな田園風景を演出してくれてます。

見沼代用水東縁 カモ 鴨 DSCN5863 見沼代用水東縁 カモ 鴨 DSCN5864

土手を降りてみましょう。

2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」DSCN5866 2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」DSCN5867

案内板があり、どうやらこちらは「フナノ」という伝統的なものだということが判明。

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FUNANO HISTORY

約50年前まで、見沼田んぼは一面の水田でした。そのころまで、この地域では稲刈りの後、「フナノ」と呼ばれる藁塚が作られてきました。藁は家畜のえさ、燃料、わら細工とその用途は広く、その中で生み出された「藁の文化」は人々が記した貴重な生活文化の証です。

しかし、減反政策に加え、農業の機械化、後継者不足、石油ガス燃料、プラスチックの普及が急速に進み、「フナノ・藁」文化もいつしか途絶えていました。そんな中、見沼田んぼの象徴としての「フナノ」を、という声に押され、数年前から復活しました。

ほとんど記録が残ってない中、古老に話を聞き、手ほどきを受け、「フナノ」は、ようやく完成しました。使った藁、約9トン(約9反分)、作業に関わったのは約120人に及びました。調べてみると、「フナノ」は全国的にもまれな大きさ、さらには、他に例を見ない舟形形状、それらの美意識に改めて感動しました。「フナノ」は晩秋の見沼たんぼに欠かせない風景、という声も多く寄せられています。

しかし、制作には、多くの手間と人手を必要とします。多くの方々の協力を得ながら、これからも「フナノ」を継承してゆきたいと考えています。温かく見守ってください。

見沼田んぼの文化遺産「フナノ」づくり実行委員会(見沼ファーム21ほか12団体)

以上、案内板より引用しました。

せっかくなのでもっと近くに寄って見てみます。

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周囲には竹で作った背の低い生垣のようなものが取り囲んでおり、足元にはもみ殻が敷いてありました。

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紅葉を背景に、とても風情がある季節の風物詩です。

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近くには見沼代用水のほか、加賀屋川も流れており、美しい見沼の田園風景を作っています。

2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」 加田屋川 DSCN5888 2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」 加田屋川 DSCN5889

加賀屋川にかかる橋の上からもフナノを見ることができました。

2014年11月14日 さいたま市営霊園に行く途中で見かけた、見沼田んぼの「フナノ」DSCN5890

この後、見沼田んぼを北西に向かい、さいたま市営霊園に向かったのですが、丁度紅葉が美しい季節。その時の記事はこちらになります。さいたま市営霊園思い出の里は、このように美しい見沼田んぼに隣接している自然豊かな霊園です。

※埼玉県の霊園一覧ページはこちらをご覧ください。

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